作品を通して自分のコンプレックスが投影される

【トミヤマ】ブサイク女子マンガを読んでいるとき、そこに自分のコンプレックスが何らかの形で投影されますよね。この主人公はどうやってコンプレックスを乗り越えていくんだろう? ということをわりと本気で知りたくて読んでいる気がします。

たとえば『エリノア』って本当に悲しい話で、たった30時間美人になっただけでなんでこんなひどい目に遭わなきゃいけないんだ、というのが、他人ごとで済ませられないし、本当にやりきれない。「私はエリノアじゃなくてよかった、ラッキー!」とは思えない。

【能町】思えないですね。一応最後に「幸せだったのではないでしょうか」って書いてあるけど、童話としてそう締めたら綺麗だというだけでしょう。

【トミヤマ】一方で、容姿に関するコンプレックスが大きなテーマになるのって、やっぱり思春期ならではですよね。私は実家がメガネ店なんですが、高校生になってメガネをつくってもらったとき、父が両目の間隔を測る機械を使いながらふと「ユキちゃんって普通のひとより目が離れてるね」って言ったんです。当時はそれが美しくないって意味じゃないか、とすごく気になってしまって。大人になってから父に、多感な時期にそういうことを言わないでほしいとクレームをつけました(笑)。

大人になるとブサイクの定義は広くなっていく

【能町】マンガでも、シンプルに顔の造形について悩んでる、というのは思春期が多いですね。思うに、大人になるにつれてブサイクの定義が広くなっていくんじゃないですか。老三姉妹のマンガ、松苗あけみ先生の『カトレアな女達』も、年齢とちぐはぐな若いおしゃれをしてるから異様な感じだというだけで、容姿そのものはブサイクではないですもんね。

松苗あけみ『カトレアな女達』(白泉社文庫)

【トミヤマ】そうですね。あと、年をとると、悩みがもっと複合的になるんでしょうね。美しくないという悩みだけに集中できない。

【能町】そうですね。現実社会はほかの悩みもたくさん出てくるから。

【トミヤマ】家庭と学校しか場所がなかった学生時代と違って、大人になると世間が広がるし、いろんなひとと出会います。「あれ? なんか自分よりかわいくないのにめちゃくちゃモテているひとがいるぞ」みたいなことに気づきだすと、顔面の問題だけに悩んでいられなくなる。「なぜモテないんだ?」っていう別の問題も生まれてくるわけで、その複雑さをきちんと描かないと、大人のブサイク女子の話は成立しにくいかも。美人=幸せという図式がそう簡単には成り立ちませんから。