つまり、である。実戦において剣を片腕で自在に使いこなすには、かなりの腕力を必要とするのだ。武蔵は「常識はずれの屈強な腕力を鍛えて剣を持て」と言っているのと同じなわけで、この点、他の剣の流派と全く相容れない特殊な流派なのである。

武蔵は何故、そんな常識はずれを主張してまで、片腕で剣を使うことを目指したのだろうか。何か深い理念があってのことだろうか。

否。理由は、単純明快だった。片腕だけで剣を持つほうが、両腕で剣を持つよりも有利に戦えるから。ただ、それだけなのだ。

戦闘中、自由に使える腕が空いていれば、何かと便利である。さらには、1本の剣より2本の剣のほうが攻撃力が増す。

――と、つまり武蔵は、戦いの勝利を“合理的”に目指す人だった。そう、「二天一流」とは、そして『五輪書』とは、勝つための合理的なノウハウをひたすら模索した“徹底したリアリズム”に、支えられたものだった。

この点、こんにちでは『五輪書』に少なからぬ誤解のイメージがある。剣の奥義を窮めた宮本武蔵による、一種の人生論・処世訓をつづったものと思われているフシがある。だが、この書、そうした類の哲学書めいたものでは決してない。その中身は、どこまでも「剣による戦いの必勝法」をつづった実用書である。

人は常に、様々に形を変えた“戦い”に我が身を置いて生きている。そうした日々にあって、どんな戦いにも“勝利という結果”を手にするため必要なのは、安易な観念論や精神論ではない。徹底した合理性である。リアリズムの精神である。『五輪書』は、それを教えてくれる書なのだ。だからこそ、こんにちの我々にも十分に読む価値がある。