今の日本のビジネスマンが戦後第一世代と比べ圧倒的に劣っているのは、世界に出ていって勝負しようという「気概」である。

松下電器(現パナソニック)の松下幸之助さんは英語が一つも話せないのに、技術提携先を求めて自ら世界に飛び出していった。欧米の有力企業を直接訪問し、当時世界屈指の電機メーカーだったオランダのフィリップス社と電子部品での合弁を実現させたのだ。もちろん松下の代名詞でもある事業部制も同社から取り入れた。ちなみに大番頭の高橋荒太郎さんも英語が話せなかった。

本田宗一郎さんも英語はダメだったが、イギリス・マン島の二輪レースで優勝すると宣言、7年後に夢を実現して、今日のホンダの礎を築いた。

ヤマハの4代目社長でヤマハ発動機を創業した川上源一さんも、英語が話せなかった。ヤマハのバイクは58年にアメリカで行われたカタリナ・グランプリへの参加を足掛かりにして海外へ進出する。バイク好きの私は当時のレース映像を持っていて、ヤマハは途中でリタイアするのだが、実況アナウンサーが「ピアノメーカーのヤマハがつくったオートバイを我々が見るのはこれが最後でしょう。ヤマハハハー!」などと馬鹿にしたコメントを残している。

戦後第一世代の経営者でまともに英語ができた人は、私が知る限りほとんどいない。ソニーの盛田さんはできたが、井深大さんの英語は古株の人に聞いても誰も聞いたことがなかった、という。その国際派の盛田さんにしてもピカピカの英語ではない。ブロークンでも愛嬌たっぷりだから、皆、我慢して聞いていたのだ。相手に通じるまで自分のペースで喋りまくる度胸というか、結果を出す“英語力”は見事というほかなかった。

94歳で亡くなった松下幸之助さんの葬儀で衆目を集めたのは、デッカーさんというフィリップス社の元会長だ。言葉は通じなくても友人代表で弔辞を読むくらいだから、心が通い合っていたのだろう。幸之助さんはフィリップス社への感謝を生涯忘れることはなかった。英語は話せなくても、世界に通じる価値観というものを持っていたと思う。