市場そのものを創った天才

川上源一の自伝『狼子 虚に吠ゆ—私の履歴書』(1979[昭和54]年、日本経済新聞社)。前年、日本経済新聞に連載した「私の履歴書」の書籍化。『私の履歴書 経済人<全38巻>』(日本経済新聞社)の中には収録されていない。(撮影=編集部)

偏屈で変わり者。人当たりは"超"悪い。だから人前やマスコミには出たがらなかった。しかし、川上源一さんは戦後日本の経営者の中でもっとも個人能力が高かった人だと思う。

戦後の貧しい時代にどうやって日本でピアノを普及させるか。川上さんが目を付けたのはベビーブームだった。赤ちゃんが生まれると「おめでとうございます。今から毎月1000円ずつ貯金をしていただけると、ちょうどいいお年頃にピアノが買える金額になります」と親を口説いて、ピアノ貯金を積み立てさせたのだ。

4歳からヤマハ音楽教室に通わせて、10歳でピアノを買う。家庭における音楽教育の大切さ、豊かさを啓蒙して、いわばピアノが売れるべくして売るためのマーケティング戦略を仕掛けた。結果、日本の家庭のピアノ普及率は20%に達して、本場のドイツやアメリカを抜いて世界一になってしまった。

川上さんのこうした着想は勉強して得た知識によるものではない。どうしたらいいか、いつも自分の頭で考えていた。孫子の「兵法」をこよなく愛し、唯一、それだけは自らの行動の糧としていた。

ピアノ作りにかける情熱も超人的だった。先代の川上嘉市氏は科学的なピアノ製作で会社を立て直したことで知られているが、息子の源一も引けを取らない。大金を投じて当時最先端の木材乾燥室を作り、響きの良い木材を研究した。同じ木材で半年乾かしたものと2年乾かしたものではどう音が違うのか、同じ材質の鍵盤でも弦や鋳物が変わると音がどう違ってくるのか、など実に15万通り以上の実験を行った。砂をビニールに詰めて真空引きしたユニークな型物で鋳物を作る工場には、当時の資本金を遥かに上回る投資をしたという。勝負時には計算なしに勝負を賭ける戦後第一世代の日本の経営者の姿がそこにはあった。

ドイツやアメリカでもやっていない木材やピアノ線の研究を繰り返し、世界に例のない合理的な生産体制を築き上げて、ついには世界一のピアノ会社を作り上げた。弱小資本の日本の楽器メーカーが西洋の伝統楽器であるピアノで世界一になるのだから、今では信じられないような夢物語である。超天才経営者だったと思う。

途中、世界のピアノ御三家のひとつであるスタインウェイ社がかなりの安値で売りに出たことがあった。当時のヤマハなら簡単に買える金額だった。しかし、マッキンゼーのヨーロッパ事務所から私のところに飛び込んできたこのM&Aの話を進言したら、「俺はスタインウェイに追い付き追い越そうと一生をかけてきたんだ。いまさら買える値段になったからといって買えるか!」とまったく興味を示さなかった。その後のスタインウェイは経営が立ち直り立派な会社となっているし、一流アーティストの支持は微塵も動いていない。川上さんの言っていたようにヤマハはスタインウエイに追いついたが、依然としてトップモデルの領域では追い越せないでいる。

どういうわけかこの逸話の20年後にあたる2007年にヤマハはオーストリアのベーゼンドルファーを買っている。経営危機にあったので救済の意味が強い買収であったが、川上さんが生きていれば何と言っただろうか、と考えずにはいられない。