きっかけは軽井沢のセミナー
松下幸之助さんとの出会いは『企業参謀』の出版から3年後の1978年。
この年の夏、軽井沢の万平ホテルでマッキンゼー主催の経営セミナーを開催した。セミナーの内容はそのまま『マッキンゼー現代の経営戦略』(プレジデント社)という本になっているが、そのセミナーに『企業参謀』を読んだ松下電器の役員も参加していて、「ウチも世界化についてはまったくダメなので、是非お願いします」という話をもらった。
当時、山下俊彦さんが社長になったばかりだった。平取締役から25人抜きで社長に抜擢された、あの伝説の「山下跳び」である。
最初に大阪本社で山下社長と話をして、世界化プロジェクトに取り掛かることになった。ところが、「こういう仕事のやり方にしないと世界化できない」といつもの調子でズケズケ言っていると幹部は皆、顔を青ざめた。
「できていない」と指摘した部分がことごとく、同社のルールブックである"幸之助語録"に抵触していたからだ。
たとえば松下では資金回収も支払いも月末にやりなさいというのが幸之助さんの教えだった。しかしフランスなどの資金サイト(回収期間)は60日が普通で、フランスで商売をしようとすると"幸之助語録"とぶつかってしまう。そういう項目が大きな物だけで10以上あった。
松下では概ね世界化に向けた準備はできていたが、アンタッチャブルの"幸之助語録"の部分だけがネックだった。
「これはアカンわ。私にはちょっと言えへん。先生、直接、相談役に説明してくれませんか」
山下社長からこう言われて、幸之助さんの元へチームメンバーを1人証人として連れて事あるごとに出かけて行った。
相談役の部屋は本社の役員フロアの一番奥、階段を5、6段降りた突き当りにあって、「松の間」と呼ばれていた。
幸之助さんとはそこで初めてお会いした。幹部たちが恐れおののく「経営の神様」は小さな年寄りだった。
戦後第一世代は戦前から戦中、戦後と大変な苦労をしているから、皆、それぞれの経験則に基づく考え方や哲学がある。幸之助さんが月末の支払いや資金回収にこだわるのも、資金ショートで倒産の危機に陥った経験があったからだと教えてくれた。
しかし、世界化のために変える必要があることを1つひとつ説明すると、「そやなぁ。先生の言う通りやわ。そなら、そうしたらよろしいがな」と、拍子抜けするほどものわかりがいい。思考が柔軟なのである。
「え、いいんですか」
「そうしなはれ」
しかし相当に大きな変更を要する場合には、「ほなこれ、誰に言うてくれた?」と最後に聞かれる。山下社長や経営陣の名前を挙げると、「もう1回言うて」と私が名前を言うごとに指を折る。
「あ、それじゃ足りんわ。東さんやろ、丹羽さんやろ、それから……これらに言うといて」