幸之助さん2つの「聖域」

東(国徳、元松下電器産業副社長)さんや丹羽(正治、元松下電工会長)さんは幸之助さんの番頭だった人たちだ。すでに松下電産は去っていたがそういう人たちが5、6人いて、幸之助さんが何かを決めるときの相談役、「相談役の相談役」という役回りだったのだ。

「相談役に言われて参りました」と1人ずつ説明に行くと、東さんなどは「そうか、そうか」と嬉しそうに迎えてくれた。

相談役が私を派遣してきたのは案件に賛成しているということだから、誰も反対しない。「松下もついにこういう時代がきたか」と皆、好意的に受け止めてくれた。

一方、幸之助さんから相手にされない現役の幹部連中は気が気でない。無謀にも幸之助語録にチャレンジした若い部外者は磔か、はたまた市中引き回しと彼らは思っているから、息をひそめて様子をうかがっている。

私が“松の間”を出て廊下を歩いていると、計ったように役員部屋のドアが開いて、「ちょっと寄ってかない?」

招き入れた要件はただ1つ、「相談役、何て言うてた?」である。

前項でも記したが、幸之助さんは色紙を頼まれると「素直な心」と書いた。本当にとらわれのない、素直な心で「変えなはれ」と言ってくれる人だった。状況が変わったら、結論も変える。英語ができないのに「スクラップ&ビルド」が口癖で、松下の社内用語になっていたぐらいである。工場などを修繕するのはいいが、時間が経てば一度つぶして最新の機械で作り直せ、という意味である。

そんな幸之助さんが変えることを許さなかったことが2つある。1つは住友銀行(現三井住友銀行)との関係だ。「銀行に膨大な現金を積んでおくのはもったいないから、運用を考えたらどうか」と進言したら怒られた。

資金繰りが悪化して倒産しかけた時に、手を差し伸べてくれたのが住友銀行で、「住友はんに助けてもろうた。だから余った金は全部住友さんのもの」だから運用なんてとんでもない、と言って絶対に譲らない。もう聖域のようなものだから、こちらも深追いはしなかった。

もう1つ、大事にしていたのがオランダのフィリップス社との関係。

英語が話せない幸之助さんが技術提携先を求めて自ら欧米の有力企業を訪問、合弁(松下電子工業)を実現した相手が当時、世界屈指の電機メーカーだったフィリップスである。

フィリップスに事業部制を学び、追い付け追い越せで会社が成長し、追い越すところまできた頃、社内ではフィリップス無要論が聞こえてきたが、幸之助さんは絶対にそれを許さなかった。

94歳で亡くなった松下幸之助さんの葬儀で衆目を集めたのが、デッカーさんというフィリップスの会長だった。雪がところどころに残る寒い冬の日、高齢のデッカーさんは、脚を引きずりながら遠くオランダから杖をついて駆け付けたのだった。友人代表で弔辞を読むくらいだから言葉は通じなくても、心が通い合っていたのだろう。幸之助さんは技術と組織を学んだフィリップス社への感謝を生涯忘れることはなかった。

次回は《大前版「名経営者秘録」(4)——川上源一さんの「音楽は好きか?」》。11月5日更新予定。

(小川 剛=インタビュー・構成)