医者は高いほうがよく効く

たていし・かずま 
1900(明治33)年、熊本県生まれ。熊本高工(現熊本大)卒。1933(昭和8)年、立石電機製作所(現オムロン)を設立。リレーやマイクロスイッチなどのオートメーション機器、自動改札機、現金自動支払機などを開発。「大企業病」ということばの生みの親でもある。1991(平成3)年没。享年90。(写真=共同通信)

70年代から90年代前半にかけての日本企業が一番元気な時代にコンサルタントの仕事をしていたおかげで、得難い経験を随分させてもらった。日本の経済復興を牽引してきた戦後第一世代の経営者とのお付き合いもそうである。

傍らにいるだけで習うことは本当に多かったし、経営論や組織論、戦略論などを議論する貴重な機会まで戴いた。お金をもらいながら勉強しているという感じだった。

思い出深い人ばかりだが、たとえば立石電機製作所(現オムロン)の創業者である立石一真さん。1900年(明治33年)生まれの立石さんは、50歳を過ぎてから従業員を100倍、売り上げを1000倍にして、倒産寸前まで追い込まれていた町工場を世界企業へと飛躍させた。松下幸之助さんや盛田昭夫さん、本田宗一郎さんらに匹敵する大経営者であり、「50を過ぎて事を成したのは伊能忠敬と立石一真だけ」と私は評してきた。

立石さんと私の縁結びの神様は、『企業参謀』の出版に尽力してくれたプレジデント社の守岡(道明)部長だ。当時、立石さんもプレジデント社から『わがベンチャー経営』という本を出版していて、「我が社の共通の著者」ということで守岡さんが立石さんと私を引き合わせてくれた。

立石さんの会社はもともとスイッチ、タイマー、リレーなどの電子部品の会社である。シャープやカシオと競って電卓でヒットを飛ばしたが、その後の過当競争と石油ショックで赤字に陥っていた。それで「大前研一を紹介してくれ」という話になり、守岡さんが立石さんをマッキンゼーの東京事務所に連れてきたのである。

私は立石さんに「企業参謀を作るなら、会社の将来を背負って立つような若手を7人ぐらい集めて欲しい」という話をして、同時に高額なコンサルタントフィーを提示した。

しかし立石さんは「わかりました」の一言で、すべてを飲み込んだ。後で誰かから聞いた話だが、立石さんは「かかる医者は高いほうがよく効く」と言っていたという。