会長はいきなりぶちかました

かわかみ・げんいち
1912(明治45)年、静岡県生まれ。高千穂高商卒業後、大日本人造肥料入社。1928(昭和12)年、父の嘉市が社長であった日本楽器製造に入社。1950(昭和25)年に社長就任。1955(昭和30)年、ヤマハ発動機を設立。2002(平成14)年没。享年90。(写真=共同通信)

ヤマハ4代目社長、ヤマハ発動機の創業者である川上源一さんとの出会いは強烈だった。

息子の浩さんに社長を譲った後も会長や最高顧問としてグループ経営にエネルギーを注ぎ続けたが、その浩社長から「うるさいオヤジがいて前に進まないので、ひとつお願いします」とヤマハの世界化プロジェクトを依頼されたのがそもそものきかっけだった。

企業参謀チームを作ってプロジェクトを進めることになり、「今日から世界化のための改革チームを発足します」と宣言するキックオフ会合。その席に呼ばれた源一会長はいきなりぶちかました。

「世に経営の神様と呼ばれている人間がここにいるのに、なぜヤマハのことも知らない外部の人間にアドバイスを求めるのか。こんなプロジェクトは無効だ。アホなことをやってないで、経営のことを聞きたければオレのところに来い!」

 大変な剣幕で一喝してさっさと帰ってしまったのだ。我々外部のプロジェクトメンバーは唖然茫然である。社員も顔面蒼白だったが、会長の振る舞いには慣れているようで、「やるだけやりましょう」とプロジェクトはスタートした。

初手から洗礼を受けたが、そんなことでビクついていたら仕事にならない。プロジェクトの進捗状況を会長に報告することも、皆怖がるものだから結局、私の仕事になった。予想通りというか、大概は聞く耳を持たない。

世界化に向けた組織改革については面倒臭がってほとんどOKをくれたが、頑として受け付けないタブーがいくかあって、そのひとつが社名変更だった。

当時の社名は「日本楽器製造株式会社」。「YAMAHA」はブランドに過ぎなかった。しかし、グローバル化していく上ではブランドと社名が一致していたほうが圧倒的に認知されやすい。

「もはや日本も越えたし、楽器も越えた。これから世界ブランドである『ヤマハ』を社名にしてやっていきましょう」

社内では拍手喝采の提案だったが、会長は怒り心頭だった。曰く、

「親からもらった名前を変えるような子どもはろくなもんじゃねえ」

同じ時期にこんな“事件”もあった。浜松にある三菱自動車のディーラーの前を、会長を乗せた車が通りかかったとき、会長は急に車を止めさせて、ディーラーに飛び込んだ。そこの所長を呼びつけて、いきなり怒鳴りつけたという。

「俺はヤマハの川上だ! お前たち、親からもらった三菱という立派な名前がありながら、なぜMMCなどと名乗っているんだ!」