普通の経営者とは発想が違う
川上源一さんは社長になって3年目の1953年(昭和28年)に世界一周旅行に出て欧米を視察している。日本人がまだ食うや食わずの生活をしている時代に欧米人が海や山でレジャーを満喫しているのを目の当たりにして、「日本も復興してきたたら、レジャーが産業になる」と川上さんは確信した。
帰国後にヤマハ発動機を設立、バイクやボート製造に乗り出し、さらにはスポーツ用品やリゾート開発などに事業の手を広げていく。
狙いを定めたときの集中力は並大抵ではない。ヤマハ発動機が錆びにくい船外モーターを開発したときも、すでに社長ではないのに年中現場に顔を出して、「完成するまでその船から上がってくるな!」と叱咤した。ヤマハの船外機が今日でもシェア世界一なのは、基本性能の優秀さに加えて、圧倒的な防錆防食性能を誇っているからだ。
ピアノのフレーム加工の技術から洋弓作りを始めると鹿狩りに熱中した。全国のピアノのディーラーに「鹿はいないか」と問い合わせて、返事があるとそこまで出かけていった。裏山に入って2、3日出こないのだ。鹿打ちで株主総会を蹴っ飛ばしたこともあった。
普通の経営者とは発想が違う。川上さんは会社の休日を「土日」ではなく、「日月」にしていた。「周りが遊んでいるときに働き、周りが働いているときに遊ぶことで、レジャー産業というものがよくわかる」という発想からだった。ところが土曜日に仕事をしても仕事相手は休んでいるし、逆に月曜日には仕事の電話がかかってくるから休めない。「ウチは週休一日」というボヤきが、現場からよく聞こえた。
ニューヨークでソフトシェルクラブを食べたときのエピソードも記憶に残っている。普通の人は「美味い。さすがニューイングランドの名物だ」と感心して終わりだが、川上さんは好奇心の塊だから「これは何だ?」「どこで採れるんだ?」「日本にもいるのか?」と矢継ぎ早に質問する。
「これは変態した直後のカニだから柔らかくて美味しい。時期の問題で、特殊な種類のカニではない」と説明された川上さんは帰国するとすぐに伊勢鳥羽に飛んで、今度は地元の漁師に聞いた。
「この辺りに殻の柔らかいカニはいるか」
「6月頃にそういうのがたくさん網に引っかかってくるが、売り物にならないのですべて捨てている」
「そうか。今度は俺が全部買ってやるから捨てずに持って来い」
鳥羽界隈の漁師と独占的に契約を結んでカニを買い集めて、当時ヤマハが経営していた鳥羽国際ホテルで名物料理として出すようになった。日本初のソフトシェルクラブ料理は川上さんが持ち込んだのだ。