「悪魔の子ども」と罵られたポピュリスト
——民主主義が導入された以降も、「悪党」の政治指導者は現れたのでしょうか。
アヘン戦争などの「砲艦外交」で知られ、長年にわたり外相や首相を歴任したパーマストン子爵(1784~1865)が、その好例でしょう。
当時イギリスで「亡命」生活を送っていた思想家カール・マルクスから、「すぐれた政治家ではなく、茶番劇が似合うじょうずな役者」と皮肉交じりの酷評を受ける一方で、欧州外交の舞台で競り合っていた宿敵クレメンス・フォン・メッテルニヒからも、「もし悪魔に子どもがいるとしたら、それはパーマストンに違いない」と罵られていました。
さらに彼は自身の主君であるヴィクトリア女王からも嫌われており、女王から「私は本心からもうこれ以上、パーマストン卿とは一緒にやっていけないし、彼に信頼も置いていない」と非難され、外相を辞任させられたこともありました。
——どうして、そんな嫌われ者が権力の座を占め続けることができたのでしょうか?
貴族出身のパーマストンは、外国語が堪能で、商才にも長けており、政治家としての交渉力や実務能力も非常に高かった。そして、何より彼は希代のポピュリストであり、新聞メディアを巧みに利用して、庶民から抜群の人気を得ていたのです。
敵も多く何度も失脚の憂き目を見たパーマストンですが、ロシアとの間でクリミア戦争が勃発すると、世論に押される形で70歳の高齢で首相の座に上り詰め、結局、80歳で急逝するまで2期9年にわたり首相を務めました。
愛人・金銭スキャンダルにまみれた「敵役」
——他には、どのような「悪党」政治家がいたのでしょうか。
第一次世界大戦でイギリスを率いたデイヴィッド・ロイド=ジョージ(1863~1945)が挙げられます。彼は庶民出身で、刻苦勉励の末に弁護士となり、その後、政治家に転じた人物です。貴族階級の特権を批判し、国民保険などの制度を整備して、庶民の味方として人気を集めました。第一次世界大戦が始まると、柔軟性に欠けるハーバート・ヘンリ・アスキスに代わって首相に就任し、旗色の悪かったイギリスを逆転勝利に導きます。
——素晴らしい政治家に見えますが、どうして「悪党」なのですか。
ロイド=ジョージは効率的な戦争指導を目指すあまり、王権と議会というイギリス政治における重要なプレーヤーを無視して独断専行に走り、両勢力から強い批判を浴びました。
また戦後は、敗戦国ドイツに過大な賠償金を科して次の大戦の火種をつくる一方で、国内では爵位を乱発して「栄典売買」を行い、政治資金スキャンダルを追及されます。さらにはウェールズの地元に愛妻マギーがいるにもかかわらず、ロンドンでキャサリン・エドワードという愛人との間に婚外子をもうけ、キャサリンと別れた後は、娘の家庭教師だったフランセス・スティーヴンソンと恋愛関係になるなどの愛人スキャンダルにも事欠きませんでした。