実家への苦情電話に謝罪する母の姿

9月になると2学期が始まる。昼間は学校にいるので知らなかったが、日曜日に2階から降りると、父親と母親が喧嘩していた。一体何ごとだろうと彼はいぶかったが、どうも自分に関することが原因らしいとわかった。

現在の加藤直樹氏。(画像=著者撮影)

「何でそんなもの、お前が謝らんといかんのや」

父親は母親を叱っている。電話がかかって来た。苦情電話らしい。母親が電話に出て「すみません」としきりに謝っている。また父親は言った。

「何も悪いことしていないのに、なんでお前が謝る必要があるんや」

後でわかったことだが、電話は「死ね」とか「お前んとこの息子がエラーしたから負けたんだ」という見知らぬ人からの文句だった。1日に何本電話があったのか、彼は知らない。周囲が教えないようにしていたのだろう。

野球部を引退した後の日々はそうやって過ぎた。

関西では自殺説まで広まっていた

10月に星稜高校は国民体育大会の出場校に選ばれる。準々決勝で浪商(大阪府)と対戦することになった。浪商は牛島和彦、香川伸行のバッテリーで甲子園を沸かせ、ベスト4まで進んで人気チームである。加藤が一塁を守っていると、浪商ベンチから野次が飛んだ。

「加藤、またそこで転ぶなよ」

無視していると、浪商ナインは意外なことを言った。

「大阪ではお前は自殺したと有名な話になっておるで」

落球のショックで加藤が自殺したという噂が関西では広まっていたのである。都市伝説の類だが、そんな話は初耳だった。自分が死んだことになっているという噂はさすがにこたえた。加藤が落ち込んでいるという話は尾ひれがつき、距離が遠くなるほど増幅されていたのである。

卒業したらもう野球はしたくないと考えていたが、星稜の好打者加藤を地元企業は放っておかなかった。硬式野球部を持つ地元で最大の銀行である北陸銀行から声がかかったのである。野球部監督からの説得に負けて加藤は入行を決めた。しかし、腰は思う以上に悪化していた。腰椎分離症と判明し、半年で退部して銀行業務に専念することになった。