空手人気に乗じて「武道センター」を作りたい
そして、このころ彼は母校との関係を深めていた。国士舘大学が国際化の一環として、武道を世界に普及させるプロジェクトを進め、それに岡本が協力していくのだ。
きっかけは80年8月末、西ドイツ(当時)のブレーメンで日本空手協会が開いた世界空手道選手権大会だった。岡本はエジプト選手団を率いて参加し、団体戦四位の成績を収めた。そのとき彼は国士舘大学の理事長兼総長、柴田梵天と会う。創立者の柴田德次郎は7年前に亡くなり、梵天が後を継いでいた。
岡本はエジプトに帰ったあと、武道センターを建設するため国有地を使わせてもらえないか、政府幹部に持ちかけている。エジプトの空手人気は高かった。世界選手権で4位に入ったことで注目度も上がっていた。エジプトはイスラエルと関係を改善し、不用になった軍用地が生まれつつあり、国有地の利用は難しくないと岡本は感じた。彼は国士舘大学総長とエジプト政府幹部との会談をセットする。
エジプトにとって投資は願ってもなかった
柴田は81年5月31日、武道友好使節団を率いてカイロにやって来た。使節団は翌日、エジプト青少年スポーツ省に大臣のアブドル・ハミド・ハッサン、次官のユーセフ・アボウ・オウフを訪ねている。そこで大臣と次官は岡本の活動を称えた。国士舘大学新聞(6月27日付)はこう伝える。
〈大臣も次官も、六年前からエジプトにおいて空手の指導、普及に当たっている本学の卒業生岡本秀樹氏の誠実な人柄と熱心にして卓抜した指導振りを非常に高く評価し、本学の教育の成果に深い関心を示しておられた。〉
袖の下による密輸で荒稼ぎしている岡本の人柄を、「誠実」と表現しているところはいかにも、持ち上げ過ぎである。エジプト側は国士舘大学に投資を期待していた。大臣や次官の褒め言葉は、投資への期待から来る社交辞令だろう。
国士舘大学は武道を海外で普及させることを目的に海外支部を設置していた。61年のニューヨーク支部を皮切りに、72年にはパリ、77年にはカイロにそれぞれ支部を開設し、岡本がアラブ・アフリカ支部長に就いている。