1980年代、中東地域に空手を広めるため日本から派遣された岡本秀樹の尽力により、エジプトでの空手人気は高まっていた。そんな中、岡本は母校の国士舘大学と協力し、カイロで大規模な道場建設に乗り出す。日本外務省の反対を無視して「アラブの空手ブーム」を生んだ男の生涯とは——。

※本稿は、小倉孝保『ロレンスになれなかった男 空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

スルタン・ハッサンとアル・リファイのモスクを上から見たところ。
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対テロ専門部隊の指導員に就任

エジプトが親米国家になるのと入れ替わるように、イランは反米国家となった。79年3月にエジプトがイスラエルと平和条約を締結すると、イランはエジプトとの外交関係を断絶する。中東でのエジプトの孤立が一層鮮明になっていく。

当時大統領だったサダトは78年、国軍内にテロ対策の専門部隊「777」を創設した。エジプトでは76年にパレスチナ人による航空機のハイジャックが起きた。サダトが77年にエルサレムを訪問したことで、国内のイスラム過激派組織が政府やサダトに対する批判を強めていた。それに対応するため、サダトはテロ対策専門の精鋭部隊を作ったのだ。

岡本は79年、大統領府から「777」の格闘技指導員になるよう要請される。それまでは道場で空手を指導してきたが、「777」の訓練では、屋外での防御や攻撃の方法を教える。自動車から降りてすぐに相手を攻撃するケースを想定したり、ヘリコプターから降りたときに攻撃を受けた場合を想定したりした。カイロ郊外ギザのピラミッド近くの砂漠に広い秘密訓練施設があった。

「試行錯誤でした。そんなことは私も習ったことがない。だから、軍の特殊部隊の幹部と一緒に、どうやってテロ対策に空手が使えるか考えました。隊員はヘリからロープを伝ってするすると降りるんですが、そんなの怖くて、僕はできやしない。ベンツの上でクルッと回って柔道の受け身のようなこともやっていました。私は首を折っているから、それも遠慮させてもらいました」