4人はアレッポでアルメニア人の作ったコフタ(ひき肉料理)を食べた後、岡本のベンツでダマスカスに帰る。岡本が疲れていたため、吉村が運転し助手席にラバディーニ、岡本とヒロミが後部座席に座った。日が暮れかけた。ダマスカスの手前約170キロ。ホムスの街の夕日はきれいだった。岡本らの車が交差点に入ったときだった。

右手から飛び込んできたトラックが吉村の運転する車にぶつかった。ヒロミのひざ枕でうとうとしていた岡本は、衝撃で頭部を窓ガラスで強く打つ。頭部から顔面にかけて血まみれになり動くこともできない。命の危険もありそうだった。トラックはそのまま逃げた。

現地の反体制派に狙われたか

警察が来て、岡本は近くの病院に搬送された。吉村は折田に連絡しようと思った。警察はすぐに折田に連絡をとってくれた。折田は警官を相手に乗馬を指導していたため自宅に警察電話があったのだ。この事故についても折田はよく記憶していた。

「夜中の零時ごろだったと思います。警察からの電話ですぐに来てくれというから、ぶっ飛ばして行きました。岡本は反体制派に狙われたのかもしれません。当時、アサド政権に反対する勢力は少なくありませんでした。岡本はその政権の治安能力を向上させるために活動しているのですから、狙われる可能性はあると思っていました」

アレッポからホムスまでの距離は約180キロである。それを折田は一時間ちょっとでやって来た。

「私がホムスの病院に駆けつけると、もう頭の手術は終わっていました。岡本は意識があり、ベッドで空手の稽古のようなことをしていました。手術した医師に聞くと、頭からは脳がちょっと出かけていたようです。それなのにすぐに空手の稽古をしている。本当に馬鹿な男だと思いました」

治療代は当時の100万円かかる

岡本は頭部を58針縫った。問題は首だった。折田は獣医である。岡本が首を負傷しているのが折田にはわかった。彼の指示で病院は岡本の首にレントゲンをあてた。頸椎が3カ所(第5、第6、第7)損傷していた。すぐに手術が必要だ。ベイルートに搬送するしかないと折田は判断した。

小倉孝保『ロレンスになれなかった男 空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯』(KADOKAWA)

「この辺りでは当時、頸椎の手術はベイルート・アメリカン大学病院のハッダードという神経外科医にしかできなかった。彼に頼めば、何とか助かると思いました。問題は治療費です。手術となると100万円ほどかかる。当時の100万円は大きいです」

折田の心配をよそに、岡本は「後遺症が心配だ。空手はできるかな。ようやく(この地域での空手指導が)うまく行きかけたのに」と繰り返している。折田は、「まずは生きることだけを考えろ。後遺症が残っても、生きてさえいればいい。神に祈れ」と言った。

岡本はホムスの病院でベイルート・アメリカン大学病院に転院する日を待っている。大使館員が病院に花を持ってやって来たとき、折田は治療費を工面するよう掛け合った。