しかし、大使館の反応は……

「一刻を争います。何とか治療費を出してやってもらいたい」
「治療費を出す場合、公務かどうかが問題になります」
「公務ということにしてもらえませんか」

折田は食い下がるが、大使館員は冷たかった。

「まずは調べさせてください。その上で公務と認定されれば保険で対応します」
「調べるのに、どれくらい時間がかかりますか」
「1週間ほど待ってください」
「1週間も待っていたら、この男は死んじゃいますよ」
「それが規則ですから」

大使館員が帰ったあと、折田は言った。

「岡本君、だめだ。これは君に対する嫌がらせだ」

シリアで空手指導を始めた当初、岡本は幾度となく大使館ともめている。大使から「日本に帰れ」と言われたこともある。今回の治療費を巡るやりとりが嫌がらせだったとまでは考えにくいが、大使館側には、「何としてでも岡本を助けたい」という意志もなかったのだろう。

数日待ったところで折田は決断する。このままでは手遅れになる。

「とりあえずベイルートに行って手術をしろ。治療費のことは後から考えよう」

岡本は首を固定し、自分でタクシーをチャーターしてベイルート・アメリカン大学病院に行った。当時の思いを岡本はこう言う。

「こうなったら死んじゃったってしょうがないと思いました。死なないまでも、空手はできないかもしれないなと。むしろ折田先生に感謝する気持ちが強かった」

レバノンの生徒が「お金は私が出す」

大学病院に入ると、事故を聞きつけたレバノンの生徒たちが次々とやって来た。手術は急を要する。病院側は入院費用はともかく、手術費だけでも前払いしてくれと言う。岡本と病院側がもめていると、生徒の1人が費用を全額出すと言い出した。ミゲール・アブザイドという富豪だった。清涼飲料水の販売を手がけたことから「セブンアップのミゲール」と呼ばれていた。

彼はそのほかにも数十の会社を経営している。岡本の様子を見たアブザイドは涙を流し、こう言った。

「心配することはない。お金は私が出す。私は毎年、あっちの村、こっちの村に教会を寄贈している。今年は、その代わりにあなたのために使ったと思えばいいんだ」

岡本は短い手紙をヒロミに書いた。

〈このまま死んだら、ごめんなさい。さようなら。〉

麻酔を掛けられ手術が始まる。執刀医はフアド・サミ・ハッダードである。麻酔医のレベルが低いのか、うまく麻酔が効かない。ハッダードが助手と話しているのが岡本の耳に入った。「あと1ミリ深く(頸椎が)割れていたらダメだっただろうな。空手はどうだろうか。歩けるようになるかな」