タクシー代が惜しくて朝まで歩いた

ダウンタウンの2人がNSCの面接に来たときのことは、よく覚えている。ボウル吉本の中にあるフルーツパーラーを面接会場にして、新入社員の私も面接官になっていた。

当時、五分刈りだった浜田雅功は、競艇学校の入学試験に落ちていて、うめだ花月の前の看板を見て、NSCの開校を知ったのだそうだ。それで、中学時代の同級生である松本人志を誘って面接に来ていた。

面接といっても、ネタを見たりするわけではなかった。入社10カ月ほどの私ができるわけがない。「キミら、月謝は払えるか?」と聞いただけだ。

入学金は3万円で、月謝は1万5000円。それで2人は「はい」と返事したので、一応、上司にも伺いを立て「月謝が払えるならええやろ」ということで、私が「合格」を告げた。

だが、3カ月分は前払いしていた彼らも、4カ月目からは月謝を払わなくなった。それで2人には、冨井がバイトができるスナックを紹介している。

ふだんは最終電車で帰るようにしていたものの、遅くなったときには、自宅のある尼崎までの車代にと、店のママが一万円を渡してタクシーに乗せてくれていた。そうすると2人は、いったんタクシーで走りだしながらも、角を曲がり、ママから見えなくなったらすぐにタクシーを降りていた。いうまでもなく、お金が惜しいからだ。2人は朝まで、とぼとぼと街を歩いていたようだ。ダウンタウンの2人にも、そんな時代があったということだ。

「松本・浜田」から「まさし・ひとし」になり…

NSCの授業は、ボウル吉本の1階にあったゲームセンターをつぶしてつくった稽古場で行った。

殺陣やダンス、声楽などの授業をラインアップしていた。当然、漫才などもやらせていたので、私も一緒になってネタづくりなどをやっていた。

コンビなどができはじめた頃からは「NSC寄席」を始めて、生徒の友だちにも声掛けして、一般のお客さんにも見てもらえるようにした。

松本と浜田のコンビ名は、最初は「松本・浜田」だった。その後、「まさし・ひとし」、ライト兄弟など、いくつかコンビ名を変えてから、ダウンタウンに落ち着いた。

まさし・ひとしというコンビ名をつけたのは、フジテレビ系列の『笑ってる場合ですよ!』のスタッフだった。なぜだか浜田は「まさとし」でなく「まさし」にされていた。生放送が始まる寸前まで、同席していた私は「松本・浜田」を推したのだが、受け入れられなかった。そのためでもあったのか、おそらく、自分たちでは「まさし・ひとしです」と名乗ったことはないはずだ。

彼らは当初、コンビ名の不要を唱えていたのだ。だから、コンビ名をつくることをまったく急いでいなかった。