匿名性ありきのネット文化が全盛だったころ

当たり前の話だが、人間社会では、何かをオフィシャルに発言する以上は、その発言に責任を持たなければならない。

2000年代前半あたりまでの、「2ちゃんねる」に代表される匿名性ありきのネット文化が全盛だったころは、ネット上に転がっているさまざまな発言を「所詮は便所の落書き」的に捉える風潮があった。信頼できない有象無象の放言として受け流したり、距離を保って内容の真贋を見極めたりするような、ある種の冷静さや作法をネットユーザーはわきまえていた。そもそも、いまほどユーザーは多くなかったし、よくも悪くも牧歌的だった。掲示板などでバカがわめき散らしたところで、タコツボのなかでの罵詈雑言として捨て置かれることが大半だった。

当時から、著名人が自分をネタにしている掲示板を、こっそりのぞきに行くことはあっただろう。しかし、よほどのマゾはさておき、そこにレベルの低い悪口や事実に反する指摘が並んでいたとしたら、そっとブラウザを閉じて、わざわざ何度も見に行くことはしなかったと思われる。「はいはい、あなたたちみたいなアンチよりも、応援してくれるファンのほうが圧倒的に多いからね。バカはネットの底辺で憂さ晴らしでもしていてください(苦笑)」と取り合わなかった。

SNSの普及でバカが拡声器を手にした

そして「2ちゃんねらー」のようなコアなネットユーザーにしても、ネット文脈を理解したうえで、ある程度の「わきまえ」「作法」を心得ている人が多く、掲示板の雰囲気を壊さぬよう、ある種のプライドすら抱いて自分たちの居場所を守ろうとしていた。「閉鎖されたアングラ空間である2ちゃんねる以外には、自分の書き込みを出してもらいたくない」と考えていた節もある。

だからこそ、2ちゃんねる上の発言を何の断りもなく転載してアクセスを稼ぎ、アフィリエイト収入を小賢しく得ているような「まとめサイト」を敵視し、自分たちなりに培ってきた作法や文化を軽んじて、「ただ儲かればいい」と振る舞うヤツを許さない「嫌儲」意識が高まったのだ。「オレたちは、自由に発言したり、独特のコミュニケーションを楽しんだりできる、この閉鎖空間を大事にしてきた。そこに黙って踏み込んできて、勝手に発言を外に持ち出すのか? さらにはそれで儲けようというのか?」といった、義憤に近い気持ちもあっただろう。少なくとも、ネットアングラはただ殺伐としているだけの無法地帯ではなく、一定の自浄作用やバランス感覚みたいなものも兼ね備えていた。

こうした空気感が変わる契機となったのは、やはりSNSの普及だろう。かつてのネット文化を知らないユーザーが大量に流入し、ネットは「タコツボ」から「世間」にクラスチェンジした。SNSを使うことで発言の拡散力は高まり、「バカに拡声器を与える」という悪い一面も強化された。以前であれば世間に埋没していた声が、顕在化するようになってしまった。つまり、これまで触れることのなかった悪意や害意を無遠慮にぶつけられる可能性も高くなったのだ。