歌舞伎役者のカツラのセットから始まった
京山はいう。安永年間(1772~1781)、上方歌舞伎の女形である山下金作は江戸にくだって深川に住みはじめたのだが、自分が芝居でつけるカツラを美しく結い上げていた。それを目にした深川のある芸妓が感激し、「私の髪もやっとくれ」と頼み込んだ。そこで銭二百文で結い上げたところ、なんとも見事な仕上がり。これが噂になって客が殺到、ついに金作は女性専門の髪結を渡世とするようになったのである。
そんな金作に弟子入りしたのが甚吉という若者だった。彼はその技を修得すると、半額の百文で料理屋の仲居たちの髪まで結いはじめ、以後、「百」さんと呼ばれ、あちこちを回って大いに稼いだという。弟子たちも大勢できたのだが、彼らの多くも自立してさらに半額以下で仕事を請け負い、寛政年間(1789~1801)に入ると、手頃な値段の女髪結は大流行。誰もが髪を髪結に任せたので、女性は自分で髪を結うことができなくなるほどだった。
松平定信が「風俗を乱している」と禁止令
ところがちょうどこの頃、老中松平定信が主導する幕府の寛政の改革が始まった。そして改革の一環として、なんと女髪結を禁止したのである。寛政七年(1795)十月のことだ。その理由について、禁令の内容を意訳して理解していただこう。
「以前は女髪結はいなかったし、金を出して髪を結ってもらう女もいなかった。ところが近頃、女髪結があちこちに現れ、遊女や歌舞伎の女形風に髪を結い立て、衣服も華美なものを着て風俗を乱している。とんでもないことだし、そんな娘を持つ両親はなんと心得ているのか。女は万事、分相応の身だしなみをすべきだ。近年は身分軽き者の妻や娘たちまでもが髪を自分で結わないというではないか。そこで女髪結は、今後は一切禁止する。それを生業とする娘たちは職業を変え、仕立て屋や洗濯などをして生計を立てるように」
質素倹約を改革の主眼としていた幕府は、近年の庶民女性の風俗は華美に流れており、その責任の一端は女髪結にあると判断したのだ。なお、この文面から、当時の女髪結はすでに女性中心の職業だったことがわかる。
ほとぼりが冷めると平気で復活する
ちなみに『蜘蛛の糸巻』を著した山東京山は、この女髪結禁止令に賛成だったようで「彼かの百(金作の弟子・甚助)が妖風の毒を残しゝなり。然かるに。維新の御時(寛政の改革)に遇ひて。此妖風一時に止まるは。忝かたじけなき事にぞ有りける」と述べている。しかしながら、この改革では京山の兄である京伝が、遊里のことを書いた洒落本『仕懸文庫』を問題視され、手鎖(手錠をして生活する)五十日の刑に処せられている。