さて、江戸時代の面白さは、ほとぼりが冷めたら、法令は平気で破られることである。寛政の改革が終わり、将軍家斉の文化・文政時代(1804~1830)になると、風俗は大いに緩んで庶民の暮らしは贅沢ぜいたくになった。もちろん、またぞろ女髪結も現れた。ところが、である。

老中水野忠邦による天保の改革(1841~1843年)が始まると、庶民の娯楽は徹底的に取り締まられ、再び女髪結も廃業を迫られた。

天保十三年(1842)十月に出された禁令を見ると、「髪を結渡世とせい同様ニいたしそうろう女」(女髪結)は、「重敲じゅうたたき」の罪に相当するとして「百日過怠かたい牢舎」(入牢)を申しつけ、その両親や夫も罰金「三貫文」相当の罪にあたるとして「三十日手鎖」。さらに家主も同様。また、髪を結ってもらった客も三十日の手鎖とし、客の親や夫は「過料三貫文」とすると書かれている。

再度禁止されてもなぜか髪結は増えるばかり

それにしてもお金をもらって女性の髪を結っただけで、百日間も牢獄にぶち込まれ、客のみならず、女髪結の両親や家主まで処罰されるというのは尋常ではない。天保の改革が二年間で失敗に終わると、庶民が水野忠邦の屋敷を取り囲み、石を投げたり、屋敷の一部を破壊したのは心情としてよくわかる。

ちなみにこのときは、あの曲亭馬琴が『著作堂雑記』のなかで、

「天保十二年春ごろから女髪結を禁止され、今年十三年になって、それでもやまないので、女髪結だけでなくその客も召し捕られ、手鎖を掛けられるようになった。また町中に『女髪ゆい入べからず』という札が貼られるようになった。この女髪結というものは、文化年間から始まって次第に増え、貧しい裏長屋の女房や娘、あるいは下女までもが女髪結に髪を結わせるようになった。いまは自分で髪を結わない者ばかりだ。当初は客が髪を結うための油を出し、百文の代金を取っていたが、最近は女髪結が増え、安いのになると二十四文で髪を結ってくれる」

と記し、最後に「是らの御停止は、恐れながらもっとも御善政にてありがたき御事なり」とたたえている。その認識は、寛政の改革時の山東京山と同様である。

ただ、本当に女髪結を生業にしたからといって、処罰された人がいたのだろうか?

「小遣い銭にも事欠くほど生活が苦しく…」

じつは、存在したのである。『長崎奉行所記録 口書集 上巻』(森永種夫編 犯科帳刊行会)にその事例が採録されている。長崎奉行所に残る裁判記録をまとめたもので、口書というのは江戸時代の供述調書であり、最後に嘘偽りがないことを証明するため拇印を押した書類だ。

弘化元年(1844)四月の記録に「女髪結」みつ(二十九歳)の口書があるので、その供述を意訳して紹介しよう。