「様子をみる」の本当の意味
咳喘息の診療を例えに挙げたとき、私は「咳喘息の治療を開始して、それが効くかどうか様子をみる」と書いた。
この様子をみるという選択は、複数の未来に対応できるように医者が考え出した手段のひとつである。観察する時間を未来に延ばして、情報を追加するためのテクニックだ。
診断がその日の診察室だけでは終わらない場合に、薬を出してその反応性を確かめ、患者の症状がどのように変化するのかを待つ。あるいは、特に治療を施さず、いったん家に帰ってもらって、患者にその後の変化を覚えていてもらう。
これは何もしないということではない。診察時間を延長し、診察場所を診察室の外にまで拡張しているということだ。
と、まあ、ここまで、医療者側の思考や事情をつらつらと書いてきたが……。
医者側の意図を、患者が十分に共有していない場合、この戦略はそもそもあまり有効ではなくなる。患者から見て、「病気の正体がなかなかわからないから適当に治療を選んでいるのかな」と思われてしまっては、診療の意味がない。
即断・即解決型の診療はドラマの中の話
もっと簡単な言葉で言うと「様子をみる」ということがどういう意味なのかをきちんと説明しない医療者側にも、問題がある。
もちろん医療者側にも言い分はある。忙しすぎて診察時に十分な説明の時間がとれないとか、患者が結論を急いでおり聞く耳をもたない、みたいなケースもある。そういうときはどうしたって説明が不十分になりがちだ。
そもそも患者にとっての病院や医療の「原体験」とは、子どもの頃に小児科を受診したらかぜですねと言われて薬を出されて、家で数日寝ていたら治った、みたいな、即断・即解決型の経験がほとんどであろう。
病院とはそういうところだと思い込んでいる人が圧倒的に多い。薬を試しながら様子をみてじわじわと病気を追い詰めていく、みたいな、連続テレビ小説や大河ドラマ型の診療になじみがない。
そのことをわかった上で、医療者は、「詰め将棋のように一歩一歩テキの逃げ道を潰していく医療(専門的にはベイズ推定方式の診療という)があるんです」ときちんと説明すべきだろう。