関ヶ原の戦い以前に他界してしまった酒井忠次、関ヶ原の戦いに間に合わなかった榊原康政、関ヶ原の戦いで重傷を負った井伊直政の3人と比して、「得」をしたのは本多忠勝だ。
いや、「得」と表現すると忠勝に叱られるかもしれない。死なず、加わり、負傷しないこともまた才だ。
ことに負傷しないことにつけては忠勝の右に出る者はいないだろう。初陣から生涯50回以上も戦さに加わりながらも、忠勝はかすり傷ひとつ負うことはなかったというのだから。
穂先にとまった蜻蛉(とんぼ)の体がふたつに切れたことからその名がついた名槍「蜻蛉切り(とんぼぎり)」を片手に武勇伝を恣(ほしいまま)にした忠勝は、織田信長からは「花実兼備の武士」、秀吉からは「日本第一古今独歩の勇士」、そして武田信玄の近習小杉左近からは「家康に過ぎたるものが2つあり、唐の頭(からのかしら)に本多平八」と評された。「唐の頭」とは、家康が蒐集(しゅうしゅう)していたヤクの尾毛を飾りに使った兜(かぶと)のこと。「平八」は忠勝の通称「平八郎」のこと。
関ヶ原の戦いを頂点として、「家康の三傑」に君臨しつづけた忠勝らだが、家康が幕府を開いてのち、彼ら「武辺者(ぶへんもの)」が活躍する場はなくなった。代わりに本多正信・正純父子ら「吏僚(りりょう)派」が台頭してくることになったからだ。
創業者と長年苦労をともにしてきた「老臣」たちが幅を利かす時代ではなくなっていた。現役で活躍する場所もまたなくなっていた。
榊原康政はみずからすすんで身を引く態度をとり、忠勝は不遇を嘆いたとされる。だが内心、彼らもわかっていたはずなのだ。乱世には乱世の人材が、太平には太平の人材が、それぞれ必要とされていることを。