日本批判はあっても、差別や憎悪を煽る本は見つからない

初日は、陽が暮れてからソウルの繁華街にある大型書店を1軒だけ訪れた。

石橋毅史『本屋がアジアをつなぐ』(ころから)

ハングルを読めないので、日本語堪能な韓国の友人に同行を頼んだ。棚や平台に並ぶタイトルを確認し、気になった本があれば目次や本文の一部を翻訳してもらう。

たしかに、「歴史」や「政治」の棚にも、「文学」「エッセイ」の棚にも、「嫌日本」といえそうなものはなかった。

日本を批判する本がなかったという意味ではない。たとえば、歴史のコーナーには「日帝」というプレートの貼られた棚があった。1910年から1945年、大日本帝国の植民地となった時代を研究、検証した本がまとまっている。また、現代政治のコーナーは安倍晋三や安倍政権を批判的に論じた本が多く、売行き良好書としてテーブルに平積みされたタイトルも幾つかある。

なかったのは、あくまでも「嫌日本」だ。文在寅政権の外交政策を批判的に論じるといった範疇を逸脱し、「韓国人」や「朝鮮民族」に対する差別や憎悪を煽り、韓国とは断交だ、いや戦争だ、などと主張する「嫌韓本」と、内容的に対になる本である。

いうまでもなく、差別そのものは大昔から世界中にあって、韓国も例外ではない。たとえば、朝鮮半島にルーツをもちながら中国へ渡った民族に対する差別が有名だという。これは韓国だけの話ではないが、女性差別、東南アジア系の民族に対する差別なども根強く残る問題とされている。「日帝」時代が絡むので話は単純ではないが、日本人への差別意識が強い層もいる。

売れる本を作る日本、規範が厳しい韓国

日本における嫌韓本、あるいは中国に対する嫌中本の氾濫が問われているのは、「批判」と「差別」の区分けが曖昧なこと、それらの本が著名な作家や評論家、国会議員といった社会的立場のある人たちによって書かれ、なかには何十万部と売れる本もあることなのだ。

閉店間際に書店を出ると、その近くにある豚肉がメインの焼き肉屋に入った。

やはり日本だけなのか、なぜそうなったのか……。ぶつぶつと思いを巡らせる僕に、昔、すごく驚いたことがあるんですよ、と友人が言う。

「日本では『完全自殺マニュアル』(鶴見済著、1993年)という本がベストセラーになったことがある、と聞いたときです。韓国も自殺は多いけど、著者にどんな意図があっても、自殺をすすめる本は絶対に出ないと思います。ほかにも、ポルノがコンビニで売られていることも驚きですね」

――成人誌は、もうコンビニからは外されつつあります。ただ、それは倫理的な問題以上に、売れなくなったからという理由のほうが大きいでしょうね。

「日本は、売れるならなんでも本にする印象があります。韓国の出版社のほうが、これをやってはいけないという規範が厳しいと思います。それじたいは、どちらが良いかは簡単にいえないですね。商売ですから、売れる本をつくることに集中するのは大事です」

せっかくの料理を前に、盛り上がらない話題がつづいた。

「予定どおり、明日も書店へ行きますか? それとも……石橋さん、南山タワー(Nソウルタワー)へ行ったことは? 明日も天気が良さそうだし、どうですか」

この友人に付き合ってもらえるのは明日の夕方までだ。観光に切り替えるつもりはなかったが、このままではありもしない「嫌日本」を探して回る、虚しい1日になりそうだった。

ところが、予感は外れることになる。