ランナーズハイとペース配分
結果は2時間26分0秒で10位だった。
「(記録は)女子マラソンのレベルじゃないですか。とにかく走りきることだけを考えていました。(棄権したら)先生にボロクソ言われるじゃないですか。(次のマラソン出場まで)1年間言われるから、完走はしなきゃいけないって」
苦しみながら走りきった後、マラソンという競技の特性に朧気に気がついた。それはペース配分の重要性である。
「前半までは良かったんです。ハーフ(折り返し地点)までは順調、2時間13、4分のペースだったんです。でも後半ボロボロになった。ランナーズハイになってペース配分を間違えたんです」
長距離を走っているとまず苦痛を感じるものだ。その苦痛が通り過ぎると快感、恍惚感になる。それをランナーズハイと呼んでいる。このとき脳内にβ-エンドルフィンという快感ホルモンが発生しているという。
「ランナーズハイって練習のときにも起こるんです。マラソンの最中にそれとどう向き合うかは分からない。中村先生もそれまでマラソン選手を育てたことがなかった。だからペース配分を考えたこともなかった」
1センチの羊かんを5ミリの厚さに切れるか
この年の12月に福岡国際マラソンが行われている。瀬古が意識したのは、5キロを15分から16分で走り続けることだった。
「(併走している車に設置されている)電光掲示板を見て、何分で走っているというのを計算するんです。ランナーズハイになると苦しくないから、もっと速く走ることができる。でも、絶対に行っちゃいけないって、我慢する。行きたいけれど、行っちゃいけない。それが苦しいんです。マラソンには辛さを我慢すること、そしてもう1つ、自分を抑えつける我慢。2つの我慢がある。行けるのに行かないという我慢の方が辛い」
この二度目のマラソンは2時間15分0秒で5位に食い込んでいる。翌78年12月の同じ福岡国際マラソン、2時間10分21秒で優勝。瀬古は日本陸上界に現れた新星として認められることになった。
その過程で瀬古は自らの適性に気がついた。
それは我慢する能力である。
「マラソンランナーというのは普段から自分を抑える練習をしなければならない。食欲、性欲もそう。私は食事制限とか得意だもの。腹減っているけど我慢する。食べ物が目の前にあっても食べない。例えば羊かんを1センチ(の厚さに切って)食べようとするじゃないですか。でもそこで5ミリしか食べない」
つまり、頭の中で1センチの羊かんを食べると想像しながら、そこでわざと半分である5ミリの厚さに切ることができるか、である。
「そういう我慢ができる人じゃないと、マラソンのコントロールはできないんです。マラソンって誰でもできる競技じゃない。もちろん肉体的、運動能力的にできるかできないかというのもある。それに加えて心が大切」
瀬古はそういうと胸をどんと音が聞こえそうな勢いで叩いた。
「筋肉と心、2つがないとマラソンランナーにはなれないんです」(続く)