根性なしの私がマラソンなんかできるのか
入学前まで中距離走に注力するつもりだった。中村の熱に気圧された瀬古はマラソンをやると宣言することになった。
「その当時、早稲田は予選落ちで箱根駅伝に出られていなかったんですよ。それで中村先生が早稲田に帰ってくることになった。アメリカ留学中から誰かに教えてもらいたいという思いはずっとあったんです。このままだと潰れるって分かっていました」
自分にマラソンランナーとしての資質があるかは自信がなかった。
『マラソンの真髄』でもこう書いている。
〈マラソンをやると決めても、ロサンゼルスで毎日のように泣いていた根性なしの私がマラソンなんかできるのだろうかと常に思っていた。
父親も、先生に「うちの息子は根性がないので、マラソンなんてできないと思います。でも、先生ができるとおっしゃるのなら、お預けします。煮ても焼いてもいいですから、よろしくお願いします」と言ったほどだ。
マラソンは、君原健二さん(メキシコ・オリンピック銀メダリスト)や円谷幸吉さん(東京オリンピック銅メダリスト)のように、苦しくても、つらくても、粘りに粘って最後まで頑張り抜くことができる、忍耐強い人に向いている種目だ。高校時代に「練習をしない瀬古」と言われていた私に、それはない〉
「こんなに苦しいのか。もっと練習しなきゃ」
浪人期間の1年間で増えた体重を落としながら、1万メートル、5000メートルのレースに出場している。10月に行われた日本学生対抗選手権(インカレ)の5000メートルで優勝、しかし1万メートルでは6位に終わっている。77年1月2日の箱根駅伝では2区を任された。
しかし――。
「区間11番でしょ。12月に怪我をしちゃって全く練習できなかったんです。そもそも相変わらず長い距離は走れなかった。中村先生も“瀬古ってほんとにマラソン選手になれるかな”って周囲にこぼしていたらしいです。もちろん私には言いませんでしたけれど」
そして2月13日、京都マラソンに出場している。初めてのマラソンだった。
瀬古は、相変わらず自分の資質は中距離走にあるのではないかと思いながらマラソンの練習をしていた。
「練習した割にスタミナがつかないなってずっと思っていました。さらに走る前から、マラソンは苦しい、苦しいって言われていたんです。そんなに苦しいのは嫌だなって。走る前から怖くて恐くて。どんなに苦しくなるんだと思っていたら、本当に苦しくなった」
想像以上でしたと、瀬古は大げさに顔をしかめた。
「マラソンってこんなに苦しいのかって。練習しなきゃ、こんな風になるんだ。もっと練習しなきゃいけないと思いました」