自由化以前、自動車業界関係者は「アメリカの自動車会社が進出してきたら、日本の自動車会社は吹っ飛んでしまう」と信じていた。なんとか互角に戦うことができるのはトヨタ、日産二社だけとも言われていたのである。

富士重工も含む中堅以下の自動車会社は外資の軍門に下るか、もしくはトヨタ、日産の傘下に入るしかないと覚悟を決めていたところもある。そこで、中堅以下の自動車会社は提携に動いた。

絶対に三菱とは組めなかった事情

1966年、プリンス自動車は日産と合併、事実上は吸収合併である。プリンスはブリヂストンのグループで、スカイラインは同社が生んだ傑作車だ。

同社の技術部門で、特にエンジンを統括した中川良一は中島飛行機出身で、戦時中には傑作といわれた航空機エンジン「誉」の設計主任をしている。

つまり、プリンスは富士重工にとっては同じ中島飛行機から派生した会社だったのである。そのプリンスは日産に吸収された。

同じ年、トヨタは日野自動車と業務提携、翌67年にはダイハツ工業とも同種の契約を結ぶ。

66年12月、富士重工も動いた。戦前からの名門企業で、トラックと乗用車を出していた、いすゞと業務提携を結んだのである。

ただ、この提携は長く続かなかった。2年後、いすゞが「三菱重工(1970年から三菱自動車)もグループに入れたい」と提案したことで、富士重工はいすゞとの提携をやめた。

なんといっても富士重工は三菱とは組むわけにはいかなかったのである。

自動車部門では軽自動車が競合した。また、航空機部門では防衛庁に納入する際の最大のライバルが三菱だった。加えて、バス部門、農業機械でも競り合う相手だ。そのうえ、所帯は三菱重工の方が圧倒的に大きかった。

提携が進み、「一緒になろう」となったら、間違いなく吸収される側が富士重工だったのである。

「商品よりも販売力が弱い」選んだ相手は…

そのうえ、年配の社員たちにとって三菱は中島飛行機のライバルだ。三菱、中島と並び称されたけれど、三菱のゼロ戦に載ったエンジンは中島製であり、機体自体も過半を製造していたのは中島飛行機だ。

それなのに、戦後になって、三菱のなかに吸収されるのはプライドが許さなかったのである。こうしていすゞが出してきた三社の合同案に乗れない富士重工は提携を解消するしかなかった。

成り行き上、いすゞと三菱は提携をした。ただ、この提携もまた1年しか続かなかった。強くはない者同士が連合を組むのは簡単なことではない。強ければ余裕があるから相手の言うことを聞いて腹におさめることができる。

しかし、余裕がないものにとっては、ちょっとした相手のミスを許すことができないし、また、相手のちょっとした言葉遣いに神経質に反応してしまうのである。