人間は「共通である」と考えてきた近代

【岡本】「動物化」という概念は、もともとはフランスの哲学者アレクサンドル・コジェーヴ(1902~68)が提起した概念で、日本では批評家の東浩紀さんの『動物化するポストモダン』(2001年)によって広められました。

もういっぽうの「超人化」については、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェ(1844~1900)が提唱した概念の一つとして有名ですね。ニーチェはニヒリズムの彼方に現れるであろう、価値と意味を創造し新しいあり方を体現する人類をこう呼んだのです。

「近代」というのは、人間という概念が普遍的に共通であるというのが大前提なんですね。生まれてから死ぬまで、要するにある一定の年代になれば成熟して、そして死を迎える。人間はみんな共通なんだよ、という考え方がいっぽうにあって、そのなかで個人個人が自分たちの能力を発揮するという図式が大前提にありました。

近代以前の中世では、封建社会ですから生まれつき身分が定められていて、生きる世界もそれぞれ違っていました。そこから近代になって、経済の面では産業資本主義、政治の面では民主主義、そして思想的には自由平等の理念が大前提となったわけです。

私たちは「歴史的な転換点」にいる

【岡本】理念としての自由平等は、近代人にとっては強力な信条ですね。でもそれは、フィクションであるとまでは言いませんが、多分にフィクション性を帯びていると言えると思います。実際に科学の先端的な知識を参照すれば、人間を共通なものととらえる近代的枠組みは、必ずしも適正とは言えないことを、科学者でなくとも最近の人たちは知っていますよね。

イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』(2014年)で、集団でフィクションを信じることができるという「shared fiction」が、人類が文明を築き世界を征服した鍵であると語っています。shared fictionとは、古代人にとっては神話であり、近代人にとっては「大きな物語」と言えるでしょう。

そう考えれば、近代の人間は、自由平等という大きな物語をみなで信じることで、たくさんの偉業を成し経済発展と科学技術の進歩を遂げてきたと言えそうです。

そのハラリですが、『サピエンス全史』の次の『ホモ・デウス』(2016年)では、21世紀の人間は、ごく一部の神のような人々「ホモ・デウス」と、それ以外の「無用者階級」に分かれていくだろうと言っています。

ハラリの議論には、議論の中心をなす概念にきちんとした定義がなされていなかったり、またさまざまな未来予測がどのような時間的スケールで語られているのかが明確でないなど、気になる点はいろいろあるのですが、わたしたち人間がいま歴史的な転換点にいるという認識では共通するものがあると思っています。