能力や才能には、生まれ持った違いがあるはず

【岡本】たとえばスポーツの世界だったら、ある競技の競技人口から逆算して、上位何%しかオリンピック選手になれない、という確率は単純な計算で導くことができますよね。しかも、それは公然と発表されてもなんの問題もありません。でも、それ以外の能力に対してこういう計算をしようとすると、その途端に差別的な発想だとシャットダウンされてしまいます。

身体能力にかぎらず、芸術的な才能も知的な能力も、ある程度生まれたときから人それぞれすいぶん違っているはずです。マラソンに力を発揮するDNAを受け継いでいる人たちもいれば、単距離走に強い身体能力のDNAをもつ人たちもいるように。

21世紀、DNAの研究と、生物、バイオサイエンスの研究がさらに進んで、それに基づく知的あるいは身体的な能力との対応関係は明らかになっていくでしょう。そうなると、わたしたちが理念としてもっていた「わたしたち人間」の共通性への信頼は、否が応でも少しずつ崩れていく可能性があるのではないでしょうか。

もっと言えば、遺伝子を組み換えたり、編集したりすることが人間にもおこなわれるようになれば、その大前提は確実に崩れていくということは誰もが予感していることですよね。だからこそ、そうした技術を強硬に批判する人たちもいっぽうではいるんですね。

「人はみな平等」が大きく揺らぐ

【岡本】ただいずれにしても、近代が前提に置いていた人間の平等感といったものは今後大きく揺らいでいくだろうと思います。それに応じて社会制度や法律さえ変えざるをえない状況はそう遠からずおとずれるのではないでしょうか。

【深谷】超人化と動物化は、何かで分けられるというより、自然に分かれていくという感じなんでしょうか。

【岡本】そうですね、自分で選択するということではないでしょうね、気がついたらそうなっていたということだと思うんですね。すでにいろいろなところで、分かれていく契機は見えはじめているのだと思います。仕事だとか、社会のなかでの活動や文化的活動、人とのつき合い、住んでいる場所など、そういうものも含めてね。ただほんとは分かれているのに、分かれていないと思っているだけという面もあるかもしれません。

【深谷】人間はみな同じように潜在的な力をもっているのだから、努力して、頑張ってそれを伸ばそう、みたいに叱咤激励することが通用しなくなりそうですね。