日本人特有の生きざまが、あおり運転を引き起こす

アクセル思考とは、「ブレーキよりアクセル」という行動体系のことです。その象徴が、昨今話題のあおり運転であり、ひいては原発問題ではないでしょうか。いずれも「止め方を知らない野放図さ」が世間を震撼しんかんさせているからです。

たとえば茨城県守谷市の常磐自動車で起きたあおり運転の犯人の経歴を調べてみますと、資産家の家に生まれ、中学時代は勉強にも力を入れて進学校に入学し、さらには有名私大を経て、有名メーカーに入社したとありました。この人はまさに、人生自体が「あおり運転」ぶっぱなし状態だったといえます。ブレーキをかけることのないアクセル人生が今回の犯罪に帰結したわけです。

別に加害者をたたきたくてこんなことを書いているのではありません。もしかするとこのアクセル思考は、日本人特有の生きざまなのではないかと思い、提言する次第です。

明治以降の日本は、欧米諸国に「追いつく」ためにアクセル偏重に舵を切りました。欧米に比べて遅れているという切迫感が、江戸文化の否定とともに西洋偏重をまねき、トップダウン方式でアクセルを踏み続けることになったのです。これをアシストしたのが、真面目で右へ倣えが大好きな日本人の国民性です。為政者にとっては非常に扱いやすい国民であったことでしょう。

“猛進”が“妄信”へとつながった

歴史に目を向けてみても、「日本は神の国」という神話性とともにブレーキを放棄した結果、日清戦争、日露戦争と2度の大勝を収めたことが、さらにその思考を増長させてしまったことは明らかです。結果として、「いままでアクセルだけで大丈夫だったから、これからもきっと大丈夫なはずだ」と、いわば“猛進”が“妄信”へとつながったわけです。おかげで日本は勝てるはずのなかったアメリカとの戦争へと至り、堕落の道を突き進むこととなりました。

それでも、戦争を上手にかいくぐった支配者層が埋み火となり、その後も素直な国民を誘導し続けます。具体的には、敗戦という失政を経済面でリカバリーしようと試みて、高度経済成長という花を咲かせることとなりました。

経済大国として名を馳せる日本ですが、兵隊が企業戦士に名を変えただけで、根本のアクセル思考は何も変わっていなかったのです。

高度経済成長は戦後の打ちひしがれた国民にとって希望でありました。右肩上がりの経済は「昨日よりも今日、今日よりも明日はもっとよくなる」という刷り込みを国民の頭に植え付けました。

ただ、それによってもたらされたツケこそが、あの原発事故に代表される公害だったのかもしれません。そう顧みると、三丁目で夕日ばかり見つめてのんきに構えていたのは誤りだったのかもしれません。無論、極論ですが。