3度の決勝で3度サヨナラ負け「稚内大谷」に注目

では、具体的に高校を挙げてお話しします。北海道を代表する悲願校といえば、北北海道大会を戦う稚内大谷。学校が属する名寄支部は、北海道で唯一甲子園出場校がない地区です。支部内どの学校が出ても「日本最北地区」出場記録更新となります。野球が盛んな土地柄にあって、稚内大谷が北北海道大会で8強以上まで進出した回数は10回以上。名寄支部では無敵を誇っていました。

田澤健一郎『あと一歩! 逃し続けた甲子園 47都道府県の悲願校・涙の物語』(KADOKAWA)

彼らがもっとも甲子園に近づいたのは、1980年、81年、93年の3回です。いずれも北北海道大会で決勝に進出したときのことでした。「夏に3度の決勝敗退」はほかの地区でもある話ですが、彼らの悲運は、3度がすべてサヨナラ負けだったこと。80年は、旭川大高と激突しました。稚内大谷は2点を先制されるも8回に追いつきます。しかし、9回にサヨナラ打を浴び1点差の敗戦。7回以外の全イニングで走者を出しながら、あと一本が出なかったのです。

続く81年の相手は帯広工。前年同様、先制されるも追いつき、延長戦にまでもつれ込んだ11回裏、一死満塁のピンチを迎えます。ここで帯広工がスクイズを仕掛けるも、バッテリーが見抜いて投手がウエストします。三塁走者を三本間で挟みピンチ脱出かと思われましたが、なんとキャッチャーが走者にタッチしたはずみで落球し、走者がホームインしてサヨナラ負け。まさに地獄から天国、また地獄。

いつか聖地を踏む日は来るのか

三度目の正直を期して臨んだ93年夏の相手は、80年に苦汁をなめさせられた旭川大高。8回裏に稚内大谷が1点を先制し、9回裏を迎えます。この回を抑えれば初の甲子園。走者を二塁まで進めましたが、2死まで旭川大高を追い込みます。あと1人で甲子園。相手打者の打球がセカンドへ飛ぶ。ついに悲願達成かと思われた瞬間、歓喜の声は悲鳴へと変わりました。セカンドがゴロを弾き、焦ってサードへ送球した球が逸れて二塁走者が生還。試合は振り出しに戻ったのです。10回裏、1死から出した走者を二塁に進められた後、相手打者のショートゴロが内野安打となる間に二塁走者がホームイン。決勝3度目のサヨナラ負けとなったのでした。

あと少し、あと1球で目の前から遠ざかり消えていく甲子園。これならば、まだ大差で負けたほうがあきらめがつくと思うような決勝敗退。これ以降、稚内大谷に夏の北北海道大会での決勝進出はありません。しかし、いつか聖地を踏む日が訪れたならば、最果ての街には計り知れない歓喜の涙が流れるはずでしょう。