「決められたことを、決められた通りに学ぶ」は周回遅れ

デューイの言う、一人ひとりの自由な関心に基づく探究についてはどうでしょう?

日本の学校のカリキュラムは、今なお、「決められたことを、決められた通りに、みんなで同じペースで学ぶ」ものとしてつくられています。多くのヨーロッパの国々が、はっきりと「探究(プロジェクト)型の学び」への方向転換を打ち出しているのに比べると、周回遅れの感があります。

これからの時代に特に重要なのは──ほんとうは何もこれからの時代にかぎった話ではないのですが──自分(たち)なりの問いを立て、自分(たち)なりの仕方で、自分(たち)なりの答えを見出していく、そんな豊かな「探究」の経験です(詳細は、拙著『教育の力』講談社現代新書、や『「学校」をつくり直す』河出新書、をご参照いただければ幸いです)。

変化が激しく、かつての正解が正解ではなくなってしまった現代社会において、これは特に大事な経験です。もはや言われ尽くしたことですが、いい学校に行き、いい大学に行き、いい会社に入れば幸せになれるというストーリーは、今ではほとんど崩壊しています。いつ会社がつぶれるか分からないし、いつリストラされてしまうかも分かりません。幸せになるための、決まった道があるわけではないのです。社会も、格差問題やエネルギー問題、テロリズム問題等、人類がこれまでに経験したことのない問題にあふれています。

「決められたことだけやっていればいい」子どもを育てている

そんな時代にあっては、子どもたちは、これまで正解とされてきたことばかり学ぶのではなく、自分たち自身で問いを立て、そしてそれに答えていく経験を、たっぷり保障される必要があるはずです。

苫野一徳『ほんとうの道徳』(トランスビュー)

でも、日本の子どもたちの多くは、今なお出来合いの問いと答えを中心に勉強させられて、そもそも自分で問いを立てるという経験すら十分に保障されていないのが現状です。そんな経験が不足したまま成長した大人が、この市民社会の成熟した成員になれるものか、わたしはちょっと心もとなく思います。

自分で問いを立て、それに答える力が十分育まれないだけではありません。決められたことだけやっていればいい、社会は誰かエラい人たちが動かしてくれたらいい。そんなふうに考える子どもたちを、わたしたちは育ててしまっているかもしれません。

100年以上も前に、デューイは「協同的な学び」や「探究型の学び」を提言し、先述したデューイ・スクールにおいて自ら実践しました。それは何よりもまず、子どもたちのうちに市民社会の担い手としての精神を育んでいくため、つまり、「自由」とその「相互承認」を実質化するためでした。自由なコミュニケーションと自由な探究を通して、学校やクラスを自分たちの手でつくり合っていくこと。それは、「協同」や「探究」の最も基本的な経験にほかなりません。

苫野 一徳(とまの・いっとく)
熊本大学教育学部准教授
1980年兵庫県生まれ。熊本大学教育学部准教授。哲学者、教育学者。主な著書に、『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ)、『教育の力』(講談社現代新書)、『「自由」はいかに可能か』(NHKブックス)、『子どもの頃から哲学者』(大和書房)、『はじめての哲学的思考』(ちくまプリマー新書)、『「学校」をつくり直す』(河出新書)がある。幼小中「混在」校、軽井沢風越学園の設立に共同発起人として関わっている。
(写真=iStock.com)
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