「管理」のために校則があるのではないか

ミシェル・フーコーという20世紀フランスの哲学者は、学校は子どもたちを権力に従順にする装置であると言いました。校則、制服、号令、テスト……。あらゆる仕掛けを使って、学校は子どもたちを権力に都合のいい規律に従うよう訓練しているのだと(『監獄の誕生』)。

わたしは総体的にはフーコーの哲学には批判的なのですが、それでもなお、この告発には一定の説得力があるように思います。多くの学校において、まさに校則とは、子どもたちの「自由」を縛り、教師が集団を「管理」しやすくするためのものになってしまっているのです。

でも、それはやっぱり、子どもたちの「自由」を実質化する学校教育の本来の使命から遠く隔たったことと言わざるをえません。

先にも触れたジョン・デューイは、民主主義にとって最も重要なのは、一人ひとりの自由な関心に基づく探究と、自由なコミュニケーションであると言いました。この二つのない社会は、全体主義の社会です。だから学校もまた、これらを土台にしなければならないのだと(『民主主義と教育』)。

「無言清掃」「無言給食」は健全なのか

でも、今の多くの学校の現状はどうでしょう?

まず自由なコミュニケーションについて言うと、「主体的・対話的で深い学び」が言われるようになった今でさえ、「黙って座って先生の話を聞く」授業は、多くの学校でまだまだ根深く見られます。「無言清掃」や「無言給食」などが行われている学校もたくさんあります。

そんな環境の中で、子どもたちは、コミュニケーションの仕方を十分に学び「相互承認」の感度を育むことができるでしょうか?

何が何でも絶対にダメ、とは言いません。でも、少なくともわたしたちは、たとえば「無言清掃」や「無言給食」が一体何のためになされているのか、子どもたちと共に定期的に問い直す必要があるはずです。

分刻みで動かなければならない学校の先生にとって、子どもたちが掃除や給食の時間にダラダラおしゃべりして過ごしていては、時間がいくらあっても足りないという本音は分かります。でもそんな理由で、わたしたちは子どもたちのコミュニケーションの機会を奪ってしまってもいいのでしょうか。

目的と手段を、取り違えないようにしたいと思います。学校教育の根本使命は、子どもたちの「自由」とその「相互承認」の感度を育むことです。この目的のために、学校は何をするべきか。何をしないべきか。わたしたちは常にそのように考える必要があるのです。