子ども同士の「コミュニケーションの時間」は足りない
時間に余裕がないのであれば、どうすれば余裕をつくれるかを考えたいものです。もしかしたら、掃除をする日を減らしてみてもいいかもしれません。別の余計な時間を見つけて、そちらを削ってみる必要もあるかもしれません。
「無言清掃」は、黙って精神を統一し、自分と向き合う時間、という側面もあるそうです。それはそれでいいでしょう。でも、ただでさえ少ない子どもたち同士のコミュニケーションの時間を奪ってまで、そのような時間を設ける必要があるのかどうか、わたしたちはやっぱり、定期的に問い直す必要があるのではないかと思います。
「ただでさえ少ない子どもたち同士のコミュニケーション」。そうわたしは言いました。これについては、「ほんとうかな?」と思われた方もいるかと思います。確かに、学校をのぞいてみると、いたるところから子どもたちの声が聞こえてきます。一見、豊富なコミュニケーションがなされているように思えます。
関わっているのは「仲良しグループ」だけ
でも、みなさんもちょっと思い出してみてください。学校に行った時、コミュニケーションをとるのは、クラスの中の実はごく一部の友達だけだったのではないでしょうか?
「黙って、座って、先生の話を聞いて、ノートを取る」のが主流で、「協同的な学び」や「探究(プロジェクト)型の学び」がまだ十分になされていない学校では、こうしたことが起こります。友達とコミュニケーションができるのは、休み時間や部活の時間などにかぎられます。「仲よしグループ」だけでそのほとんどを過ごすことになるのは、ある意味では当然のことなのです。
ちなみに、給食や清掃を含む「特別活動」の目標について、新学習指導要領には「多様な他者との協働」が挙げられています。給食については、学校給食法に「明るい社交性及び協同の精神を養う」とあります。無言清掃・無言給食は、少し大げさに言えば、これらに抵触する可能性があるとも言えるかもしれません。
熊本市教育長の遠藤洋路さんは次のように言っています。「新指導要領では、学校活動の前提が『同質の集団』ではなく『多様な他者』であることがより明確になった。無言清掃・無言給食に限らず、学校活動全体が、同質集団を前提とした『無言の圧力』を助長するものになっていないか厳しく見直す必要がある」と(熊本日日新聞2018年12月12日夕刊)。