学校以外ではみかけない理不尽なルールは「ブラック校則」と呼ばれている。髪型、スカートの丈、ソックスの長さ、持ち物の規定。茶髪の生徒に「地毛証明」を提出させる学校もある。熊本大学教育学部の苫野一徳准教授は「子どもたちを多かれ少なかれ管理せざるを得ない学校システムにおいては、事あるごとにその管理を強化しなければとする関心が増幅されてしまう」と警鐘を鳴らす――。

※本稿は、苫野一徳『ほんとうの道徳』(トランスビュー)の一部を再編集したものです。

※写真はイメージです(写真=iStock.com/maroke)

「校則をなくせば風紀が乱れる」は本当か

学校にはおよそ市民社会とは縁遠いようなルールがたくさんあります(以下は、学校の長らく続いてきた慣習的なシステムを作り直すことを問題提起するものであって、それぞれの学校や先生を十把一絡げにして批判するものではありませんので、その点どうか誤解のないようお願いします)。

一時期、メディアでも「ブラック校則」が話題になりました。髪型、スカートの丈、ソックスの長さ、持ち物の規定などはかなり一般的なようですが、暑くてもあおいではいけないとか、マフラー禁止とかいった校則もあるそうです。一部の学校では、茶髪の生徒が生まれつき茶髪であるかどうかを確認するため、「地毛証明」を提出させるなどという人権侵害さえまかり通っている始末です(人権侵害という強い言葉を用いるのは、この行為が、日本人〔人間?〕としてのあるべき髪の毛の色を定める選別的発想に基づくものだからです)。

これらの校則は、一体何のためにあるのでしょうか?

多くの場合、ただ長年の慣習が見直されることなく続いてきたのだと思いますが、同時に、その深層には、子どもたちを統制し、管理しやすくするためというシステムの動機が潜んでいるのではないかとわたしは思います。

いや、それは子どもたちの身を守るためなのだ、なんていう声も時折聞きます。マフラーが自転車などにからまったら危ないからとか、服装や頭髪が乱れれば風紀が乱れるからとかいった理由です。

校則をなくせば風紀が乱れるというよくある意見については、実は真逆の実例がいくつもある(※)のですが、百歩譲って、細かな校則は子どもたちの安全を守るためだという言い分を認めたとしましょう。

※たとえば、かつては「荒れた学校」で、教師もそれを力で押さえつける指導をしていたという世田谷区立桜丘中学校は、2010年に校長に就任した西郷孝彦校長が、徐々に校則を全廃、「生徒が三年間楽しく過ごせる学校」を目標に学校づくりを行うことで、今ではいじめが激減、校内暴力も消え、学力も区のトップレベルになりました。ご興味のある方は、インターネット等で調べていただければと思います。

「何も考えない大人」に育ってしまう

でも、それにもやはり限度があるはずです。

改めて、そもそも学校は何のためにあるのか、そして、ルールは何のためにあるのかを考えたいと思います。

学校は、子どもたちに「自由の相互承認」の感度を育むことを土台にして、すべての子どもたちが「自由」になるための力を育むためのものです。そしてルールは、すべての人たちが、できるだけ「自由」に生きられるようになるためにつくり合うものです。

右に挙げた校則は、この学校およびルールの本質を、ちゃんと満たしていると言えるでしょうか?

あれをしろ、これをしろ、あれをするな、これをするな。……そう言われ続けて育った子どもたちは、誰かの命令に従うだけの、自分では何も考えない大人に育ってしまうかもしれません。危ないから、と言ってさまざまなことを禁止されてばかりいたら、自ら危険を察知し、回避する経験を積むこともできません。

理不尽なルールを与えられた子どもたちは、もちろん反発もするでしょう。でも、そんな中で長い時間を過ごせば、言葉を選ばず言えば”飼い馴らされ”、とりあえず上から与えられたルールに従っておけば楽、なんていう感性を身につけたりもするかもしれません。他者に対しても、あれをしろ、これをするなとばかり言って、他者の「自由」を認められない大人になってしまうかもしれません。