「全会一致」は、世界では避けるべきこと
ここで問うべきは、全会一致という決定が、「意見の対立がある状態が自然な状態である」という認識を前提に置く欧米で理解され、受け入れられるかという問題です。
全会一致(衆議一決)は、欧米社会では、社会心理学でいう斉一性(uniformity)の原理(ある特定の集団が集団内において、反論や異論などの存在を容認せずに、ある特定の方向に集団の意向が収斂していく状況を示す。斉一性の原理は、少数意見の存在を認める多数決の原則で意思決定を行う場には起こらず、全会一致を志向する意思決定の過程において発生する)と認識され、ファシズムに通じるものとして、民主主義社会において回避すべきものと認識されています。
筆者の知る限り、英語で「unanimous(ly)(全会一致)」という表現を使うのは、国連などの国際機関で一国の他国への侵略などへの非難決議や核軍縮など反論の余地のない決議などに見られるように、相当強い例外的な表現です。
全会一致(衆議一決)という斉一性の原理が働く状況を、欧米的な視点で捉えると、必ず「自薦の用心棒〈self-appointed mind-guards〉」が現れます。「自薦の用心棒」とは、社会心理学の集団思考の研究領域において指摘される事象の1つで、社会の影響や、集団心理の結果として成立した規範(自明なマジョリティ)を擁護しようとする行為者、または存在を意味します。
反論や異論を封殺するために、マイノリティである発言者を貶めるネガティブ・キャンペーン等を行う個人に還元できる「自薦の用心棒」という明確な対象が存在するのです。
日本人は“同僚からの圧力”にくみしやすい
しかし、日本社会における、「私」が「われわれ」に転じる斉一性の原理の起動のメカニズムは、「自薦の用心棒」が個人に還元できる欧米とは異なり、各自の意見や考えが、「自ず」と「ある」しかるべき点に収斂されていく「力」が働き、「私」は、気がつけば、「われわれ」へと変容するのです。この「力」の起点は、欧米における「自薦の用心棒」のように特定の個人ではありません。
それでは、この「力」とは何でしょうか。多くの日本人は、流れにあらがえないその「場」の雰囲気(最近は「空気」)であると答えるでしょう。この「場」と「空気」とは、突き詰めると何でしょうか。少し難しいですが、それは、「間主観性」に対する個人の捉え方の問題に行きつくと言えそうです。ご存じの読者もいると思いますが、「間主観性」は、現象学で高名な哲学者であるフッサールが提示した概念で、複数の個の主観の共同化、相互主体性ともいわれます。
主体としての個の主観の超越性が勝る欧米では、この「間主観性」に無条件に従うことを潔しとしないので、その存在を「peer pressure〈同僚からの圧力〉」などと表現しますが、日本人は、この「間主観性」が「根源的な自発性」、つまり、一人称性を持つかのように認識し、これに従うことに抵抗がありません。