江戸時代からグローバル化に巻き込まれていた
だが、すべてがそうとも言い切れず、専門の学者の真面目な議論の末に書き換えられた記述もある。その一つが「鎖国」だ。
かつての教科書には、「江戸時代の日本は鎖国していた」と明快に書かれていた。「貿易は長崎の出島のみを通じ、清とオランダだけに制限していた」「江戸時代の日本人は世界の情勢に暗く、それがペリーの来航によって慌てふためいた挙げ句、何とか幕末維新を成し遂げた」という解説が常だった。
しかし、最近ではこうした説には大きな修正が加えられている。長崎を通じて日本の金や銀が大量流出し、それ以前の「資源大国・日本」ではなくなったほどだ。江戸の銀相場が、スウェーデンの市場をも動かすほどだった。経済に関しては、グローバル化に巻き込まれていた部分もあった。逆に江戸後半、8代将軍吉宗の頃からは西洋の文物も流入し、知識人たちは海外事情をかなりの程度、理解していた。
では、こうした状態を「鎖国」と呼ぶのは適切なのか。もちろん、幕府が主導した貿易統制はあったので、近代のように国を完全に開いていたわけではない。そこで最近の教科書では、カギカッコをつけて「鎖国」と表記したり、「いわゆる鎖国」「鎖国と呼ばれる状態」という表現にしていたりする。あるいは2014年度用の山川出版社「新日本史B」のように、鎖国という用語そのものを用いず、「江戸時代は国を閉ざしたのではなく、唯一の開港地長崎に渡来を特許したオランダ・中国商人と貿易し、(中略)東アジアの諸国・諸民族とのあいだに、自国を中心とした通交・貿易体制を築いていた」と記述する例もある。
なお、清・オランダと貿易していた長崎の他に、対馬(朝鮮)、薩摩(琉球)、松前(アイヌ)を合わせ、「四つの口」と表記するのが通例だ。大清帝国や西洋の覇権国家であるオランダと、一地域にすぎない琉球、同じく一部族にすぎないアイヌを同等に扱うのには違和感がある。また、清とその属国だった李氏朝鮮を対等に扱うなど、両国が存在した時代にはありえなかった。しかし、現時点での学界の通説である以上、教科書にはそう記さざるを得ない。
ならば、自ら専門家になる暇などない読者はどうするか。自ら良書を探し、教科書の違和感を払拭(ふっしょく)するしかない。
そして、もっと厄介な問題がある。教科書に書いてあることには疑問を抱けるが、書いていないことの重大性に気づくには、よほどの力量が必要だ。
江戸幕府初期、ポルトガルとスペインの両国に「来るな」といえる実力があったので、「鎖国」は可能だった。その後、元禄繚乱以降の平和ボケで国防努力を怠ったので、ペリーが来た時にはマトモな軍事力を持っていなかった。だから「鎖国」が不可能となった。