かつての教科書には「江戸時代の日本は鎖国していた」と書かれていた。だが現在の教科書では「鎖国」という言葉にカギ括弧がつけられ、素朴に「海外との交流を断っていた」とは書かれていない。憲政史家の倉山満氏は、「歴史教科書は『かつて学界の多数に信じられていた説』を網羅したものに過ぎない」と指摘する――。
かつては日本史の教科書に「江戸時代、日本は鎖国していた」と明記してあったが――。長崎市・出島和蘭商館跡にある、江戸時代の出島を再現した15分の1模型(写真=PIXTA)

教科書の記述は「その時点の多数派説」

教科書に書いてあることが本当だと思ってはいけない。

学術書では、教科書の記述を取り上げて、その学者を批判することは反則とされる。なぜならば、執筆者自身が自分で書いた教科書の記述を信じていない場合もあるからだ。教科書は、その時点で学界の通説、つまり学界の多数派が信じている説を書かねばならない。

例えば、医学書だ。医学書には、学界の多数説が書かれている。ところが、医療は日進月歩。5年前に書かれた教科書の記述が現場で通じるとは限らない。5年前に余命1カ月だった病気が、完治することもある。では、「その病気が治る」と教科書に書くべきかというと、そうはならない。教科書には、「その時点での知の体系化」という意味合いがある。だから、学界の多数説となる、という手続きが踏まれるのだ。

かくして、現場でその病気を治しているにもかかわらず、その医師が教科書には「この病気は早ければ余命1カ月」などと書くこともある。その医師が教科書を書き換えたければ、自身で臨床データ(つまり証拠)をつけて学術論文として発表し、学界の多数の支持を得てからにしなければならない。

いったん支持を得ると、これをひっくり返すのは難しい。別のデータが出ても同じことが起きる。このような仕組みで、教科書には執筆者自身が信じていない記述も散見される。正確にいうと、教科書とは「かつて学界の多数に信じられていた説の網羅」といえるだろう。

医学のように実験が可能な分野でもこれである。まして歴史教科書には「かつて学界の多数に信じられていた説の網羅」以上の意味はない。かつて「なぜ、こんな意味不明な説が信じられていたのか」という記述など山のようにあるし、「前の方がマシだったのでは?」といいたくなるような劣化した記述もある。