「尊厳が失われる」という批判は妥当か

では、「人間の尊厳」を毀損するという批判のやり方はどうだろう。ドイツの応用倫理学者ディーター・ビルンバッハーは、この問題について悩ましい議論を展開している。彼の議論を参照しつつ、少し周囲にも広げてみよう。

人間の尊厳には、少なくとも個人に関わるものと、人間という種・類に関わるものの2つの用法がある。前者では、軽蔑や侮辱を受けたとき、自ら行為し決定する自由を奪われる場合、困窮や苦痛によって生活の質(Quality Of Life)が低下する事態などにおいて、尊重させるべき対象が「人間の尊厳」だといえる。

「トランスヒューマニズム」に対する批判は、このような個人に関わる意味での「人間の尊厳」よりも、むしろ、人間という種・類に関わる意味に対してなされることが多い。

というのも、例えば、遺伝的な介入は不可逆的である(元に戻すことができない)から、自ら行為し決定する自由を奪われることになるという批判は、2006年にノーベル医学賞を受賞したアンドリュー・ファイアーとクレイグ・メローの発見によってすでに根拠を失いつつあるからだ。

この発見によって、遺伝子の発現を制御すること、つまり遺伝子のスイッチをONにしたり、OFFにしたりすることが可能になってきたのだ。

この技術の開発が進めば、理論的には、成人してから自分の眼の色を好みの色に変えることもできるようになるというわけだ。

やり直しがきかないことは日常にあふれている

さらに言えば、仮に遺伝子改良が不可逆的であるとしても、それが問題であるなら、教育ですら問題だという論者もいる。通常、私たちは遺伝子改良と違い、学んだことは後からでも容易に修正したり、取り消したりできると考えている。だから、教育によって能力を増進することは大いに歓迎し、他方で、先端技術を用いた増進には批判的だ。

しかし、ピアノを弾いたり、靴ひもを結んだり、自転車に乗ったりすることを習得すれば、この能力を完全に失うことはできなくなる。母国語を話す能力の場合はもっとはっきりしている。学んだら、もう一度忘れることはとても困難であり、その意味で不可逆的だといえるのだ。

教育の結果の中には不可逆的なものがあり、そうしたものは、自ら行為し決定する自由を奪うゆえに、教育は「人間の尊厳」を毀損する、と主張するとすればどうだろう。そうした主張は、多くの人には受け入れがたいのではないか。つまり、不可逆だというだけでは、批判の根拠として弱いのだ。

また、種・類としての人間の標準状態から見た不足を、人為的に除去したり、補完したりすること(心臓に疾患のある患者に人工心臓を与えたり、聴覚障碍(しょうがい)者に人工内耳を与えたり、小人症患者に成長ホルモンを与えたりすること)は、通常、批判されることはまずないということも考慮に入れる必要がある。