100人を100通りの美人にする

大多数の主流とは異なる価値の表現は社会的評価を失う原因にもなりうる。私の専門である哲学から見れば人の外見はアイデンティティに直結するため、外見表現の自由が守られることは個人の自由と人権が守られることと同じだ。画一的な価値の社会ではこれが難しい点が問題である。

そこで解決策として私は「スロービューティー」を提案している。ファストフードに対してスローフードがある。その土地にしかできない食材をその土地に伝承された方法で料理し、食文化や生態系を守りながらじっくり味わう地に足の着いた食だ。スロービューティーも同じ発想だ。人は1人として同じ顔や体に生まれついていない。だからその人が1番素敵な表現は1人1人違っているはずだ。

ファストビューティーは100人を1通りの美人にする美容だが、スロービューティーは100人を100通りの美人にする美容だ。美という価値の基準がファストビューティーでは個人の外にあるが、スロービューティーでは個人の中に置く。それゆえ社会の中で美が多様化する。これを「人それぞれの美しさ」と名付けた。

しかしそれだけではまだスロービューティーには足りない。価値の基準を自分の中に置いたとしても、たとえば20歳の自分と40歳の自分を比較して、「20歳のときはよかったなあ、今は衰えてしまって。60になったらもっと衰えるのか……」では、ファストビューティーの若さという画一的な価値から脱していないからだ。

1年前の「素敵な自分」と今日の「素敵な自分」は違う

人は生きていれば必ず年を重ねる。年を重ねるということは、変わることだ。内面も外面も変わる。たった1年でも変わる。思い出して欲しい。1年前の今日あなたがもっとも素敵に見えた髪型や化粧や服装はどんなものだったか。今日あなたがもっとも素敵に見える髪型や化粧や服装と同じなのか。違うはずだ。来年の今日だって違うだろう。20歳の自分の美しさと40歳の自分の美しさと60歳の自分の美しさは違って当然であるばかりか、比較はそもそも無意味だ。どれも違うそれぞれ固有の美しさがある。

毎年毎年その年にしかない素敵さ(美しさ)を表現して、それを積み重ねて生きて行くこと、それを「年それぞれの美しさ」と名付けた。これら2つを合わせて「人それぞれ・年それぞれの美しさ」、それが「スロービューティー」である。これが私の定義だ。