現代では実年齢と見た目の年齢が乖離しつつある。キャリア形成も変わっていくのだろうか。法政大学キャリアデザイン学部の梅崎修教授は「現代は年齢意識過剰な社会である。そんな中で30歳を過ぎて若さにしがみつくのは危険」という。その理由とは――。
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なぜ30代後半は大事な年齢なのか

太宰治の『津軽』の出だしに次のような対話がある。『津軽』は、太宰が故郷の津軽を旅する紀行文であるが、その対話は太宰らしく「深刻」である。

「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ」
「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちっとも信用できません」
「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村磯多三十七」
「それは、何の事なの?」
「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでいる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとって、これくらいの年齢の時が、一番大事で」

この紀行文を読んだ10代の頃、なぜ30代後半が大事な年齢なのかについて、共感はもちろん、想像すらできなかった。ただ、この時35歳の太宰が、その4年後に39歳で自殺している事実は知っているのだから妙な説得力があった。

既に40代後半の私としては、芸術家の苦しさはわからなくても、30代後半の大きなキャリアチェンジには実感がともなう。

太宰治のような小説家は、青年期の繊細な悩みを小説という形で表現してきた。10代から小説(習作も含む)を書き始めた作家は、そのまま30代まで青年期が延長してしまう。それこそが煌めく才能というものであろうが、その先延ばしにはリバウンドという問題があるのではないか。

「大人になれない大人問題」

吉田豪の『サブカル・スパースター鬱伝』は、40代のスター文化系男子をインタビューして「サブカルは40超えると鬱になる」という法則を確認した。この本には数々の名言が並ぶ。例えば、リリーフランキー氏は青年期から中年期への移行を次のように説明する。

「(前略)だってそれは大人の論理で生きていくか、感受性で生きていくかの問題なんだもん。これは大人の思春期なんだから。」

このような青年期の延長の限界は、性別も国籍も無関係かもしれない。2011年に公開されたアメリカ映画『ヤング≒アダルト(Young Adult)』では、ティーン向け小説(ヤングアダルト小説)のゴーストライターとして大都会で生活する37歳の女性を美しいシャーリーズ・セロンが演じる。