なぜ「わがまま」に生きられないのか
多くの人は、「わがまま」に生きてみたいと思っているし、そんな「自由」が大切なこともよくわかっているはずです。でも、なかなかそれを実行に移すことは難しい。そこにはふたつの理由があります。
ひとつは、それまでの自分が育ってきた環境や、生きてきた経験によるもの。ここには日本人特有の考え方や、いわゆるタテ社会の圧力のようなものも含まれるでしょう。要は、まわりが「わがまま」に生きていない環境においては、幼いころから自然とまわりに合わせて我慢する生き方が刷り込まれてしまっていることです。
そして、ふたつめの理由は、「わがまま」に生きることが未知の世界に見えてしまうこと。つまり、これまでとちがう道を選ぶことを怖く感じてしまうわけですね。これまで決められたことを決められたようにやる社会や組織のなかで生きてきたなら、嫌なことがあってもその道でがんばることがあたりまえになっていて、ちがう行動をすることに二の足を踏んでしまうのだと思います。
つまり、みんな「わがまま」に生きてみたいけれど、それはなかなか難しい。そんな袋小路を前にして、日々のプレッシャーと戦いながら、強いストレスにさらされている人が、いまの時代にはとても増えているのではないでしょうか。
「わがまま」になればストレスから解放される
「わがまま」に生きられないからストレスがたまるのなら、ストレスフリーの状態であるのは、「わがまま」が上手に出せているときということになります。
ストレスは万病の元――。つまり、「わがまま」に生きることができれば、気が楽になって心が救われるのはもちろんのこと、あなたの大切な体も健康な状態になっていきます。
ただ、ちょっと注意したいのは、人には「わがまま」にできる部分と、「わがまま」に振る舞ってはいけない部分があるということ。当然のことですが、公共の場でマナーを無視して好き放題に振る舞ったり、相手の意見も聞かずに自分の考えを部下に押しつけたりするのはただの無神経な行動で、ここでいう「わがまま」ではありません。
「わがまま」と聞くと悪いイメージがあるかもしれませんが、それこそ「我が道を行く」という意味での「わがまま=我がまま」と考えるとわかりやすいのではないでしょうか。
言い換えれば、「わがまま」というのは、自分なりに1本の軸が通っているかどうか。その「わがまま」を通す理由が自分でわかっていなければ、「あいつはとんでもない奴だ」とも言われかねません。
「わがまま」であることは、それこそ「あなた自身」であるということなのです。話すことや考えていること、行動すること、それらすべてに自分なりの一貫性や信念があることが、ただの「わがまま」な人との大きなちがいになるのだと思います。