自分の「わがまま」を見失っていないか

たとえば、スマートフォンやSNSに依存してしまう問題。これも人によってたくさんの理由がありますが、なにかと束縛や制約がある人生のなかで、その空間だけでは「わがまま」に生きられるという感覚がどこかにあるのではないでしょうか?

でも、一方でこうも考えられます。

「自由に生きられるのかもしれないけど、それって本当の自由なの?」

たしかに、自由や「わがまま」は人それぞれ。スマートフォンやSNSに夢中になっているのが自由かと問われれば、やはり首をひねってしまう側面もあります。

つまり、なにが正しくてなにがまちがっているのか、自分にとってなにが本当の自由であり、「わがまま」なのかというのは、みんな案外見失っている部分があるのではないでしょうか。そうしたことは自分で意識して探していかないと、なかなか見つからないのでは? という気がしています。

縛られた環境でも「わがまま」は貫ける

ほとんどの人は会社や組織を通して仕事をするため、みんなが自由な世界に生きられているかといえば、表面的に見ればそんなことはないはず。最近は、比較的自由な勤務体系や雰囲気のなかで働ける会社も増えていますが、誰もがそうした環境で働いているわけでもないですからね。

では、自分はなにをもってして「わがまま」に生きるのか? そこを自分なりにつかまえた人とそうでない人とでは、これからの時代、わたしは人生の充実度がかなり変わるのではないかと見ています。そのためにもいま大切になる考え方が、いかに縛られた環境でも自分なりの「わがまま」を貫いて生きるかということ。

そして、それは誰にでも可能だとわたしは考えています。