国際協調主義の元外交官vs「不磨の大典」派の憲法学者

いわば、幣原も、白鳥も、いずれも天皇制を維持するという目的のために、平和憲法の象徴ともいえる憲法9条の戦争放棄条項に繋がる提案を行ったといえる。幣原首相と吉田外相は、戦前の日本の外務省で国際協調主義の重要性を主張する中心的な存在であって、また軍部の専横に苦しめられてきた存在であった。彼らには、明治憲法下の統帥権を盾にする陸軍と海軍の暴走を許したという反省から、平和主義に徹して軍部に制限を設ける戦争放棄の思想に共鳴するのは、自然なことである。

憲法改正の作業が幣原内閣で行われたということは、そこに必然的に国際協調主義の精神が埋め込まれたことを意味する。いわば、戦前日本の国際主義と自由主義の精神を存分に吸収してきた幣原と吉田という2人の元外務官僚が、首相および外相として新憲法制定に携わり、そこに国際主義と平和主義の理念を復元させた意義は大きい。

他方で、憲法問題調査委員会の松本烝治委員長や宮沢俊義委員は、幣原や吉田とは異なる考えを有していた。彼らは明治憲法の体系を維持することを何よりも優先して考えており、「不磨の大典」の条文を護ることをほとんど唯一無二ともいえるような使命とし、可能な限り憲法改正を回避しようと試みていた。そのような頑迷な姿勢を崩さなかったことで大胆な改革を要望するマッカーサーの怒りを買い、松本烝治が作成した憲法改正案はGHQに峻拒される。結局、GHQ案に基づいた新憲法が起草される運命となってしまった。

もう少し松本や宮沢が国際的な潮流を理解して、民主化の徹底や天皇の権限の縮小という柔軟性を示していれば、日本人がより主体的に新憲法を起草できたはずである。彼らの頑迷さと内向きの思考が、日本が自らの手で憲法を自主的に起草する機会を喪失させたと言えないだろうか。ここにおいても、国際情勢の潮流を適切に理解できないという日本の宿痾を観ることができる。

明治憲法「護憲派」のその後

その宮沢俊義が、そもそも明治憲法の軍部が強大な権能を持つ条文を改正する必要がないと考えていたにも拘らず、後には護憲を掲げて憲法9条の理念を強く擁護するようになるのは、なんという皮肉であろうか。それは体制に対する従順性と順応性の結果かも知れない。彼らの使命は、「不磨の大典」ともいわれる憲法の条文を、戦前においても戦後においても、一言一句を変えずに死守することにあったといえる。彼らを超越する力で、それを改正する圧力がかかったときには、いかにも彼らは無力であった。結果として憲法が大幅に改正されたのであれば、奇妙なことに今度はその新憲法を頑迷に保守することが自己目的化されていく。