しかし、ボードワンは、医学者であるにもかかわらず、病院建設に反対した。近代国家の首都として緑地を保全する大切さを主張し、そのおかげで上野の山は日本初の公園となったのである。ボードワンがいなければ、上野に博物館も動物園も上野駅もなく、東京の文化的布置や交通もだいぶ異なっていただろう。パンダも西郷さんも別の場所にいたかもしれないのである。
ボードワン博士像は、1973年、上野公園開園100年を記念して設置された。上の観光連盟が主体となり、オランダ大使館の協力もとりつけ、オランダ人彫刻家によって制作された。だが残念ながら、このボードワン像は2000年代に入ってから後に撤去された。なぜなら、銅像制作のために彫刻家に渡された写真が、ボードワン博士ではなく、その弟の写真だったのだ。ありえない間違いのように思えるが、弟も駐日オランダ領事を務めたことで日本との関わりが深く、仕方のない部分もあったのだろう。
2006年、兄の写真に基づいて、ボードワン博士像は作り直された。新旧の像を見比べると、兄弟だけに風貌は似ているが、ヒゲの感じがあまりに異なっている。西郷隆盛像も、西郷が写真嫌いだったため資料が乏しく、本人に似ていないという意見があることで知られている。上野公園には、たった数百メートルの距離に、2つも本人とは似ていない明治の功労者の銅像が長いこと設置されていたわけである。
ワイヤーで引き倒された“軍神”像
東京の銅像がもっとも撤去されたのは第2次大戦末期と戦後だ。金属不足のため、銅像が回収された。浅草寺の九代目市川団十郎像、神奈川県藤沢市の乃木希典像なども供出された。乃木将軍までも溶かしたところに戦争の末期感が漂っている。
また戦前、東京有数の繁華街であった万世橋には広瀬武夫の像が設置されていた。司馬遼太郎の名作『坂の上の雲』で親しんだ人も多いだろう。広瀬武夫は日露戦争における旅順港閉塞作戦の英雄だ。ロシアの旅順艦隊の動きを封じるため、参謀・秋山真之は同艦隊が集まる旅順港の入り口に船を沈めて塞いでしまう作戦を立案する。
広瀬は決死隊として閉塞船に乗り込むが、結局失敗して命を落とす。広瀬の死はセンセーショナルに報道され、最初の「軍神」として祭り上げられ、1910年、当時、国鉄中央線のキーステーションだった万世橋駅前に銅像が設置された。
しかし、第2次大戦後、乃木将軍や東郷元帥と同じく、広瀬は軍国主義の象徴とみなされるようになり、像は撤去されることになった。巨大な像であったため、ワイヤーをかけて強引に引き倒された。1960年代に入ってから、広瀬像を探して再建しようとする動きもあったが、どこに廃棄されたのかすら分からなかったという。広瀬は第2次大戦とは無関係だが、その像が置かれた東京の文脈が変わってしまったのである。