事件が露見したのも、看護師たちの内部告発が原因だった。山中は、住民には「教祖様」と崇められる半面、病院内のスタッフに厳しい一面を見せることもあったと聞く。閉ざされた共同体内で募っていった山中への鬱憤は、思わぬ形で発露した。

取材時の京北町の様子

この告発がなければ、その後も山中は、村人たちの「教祖様」であり続けたことだろう。不起訴となったものの、山中は、役場で閑職を強いられ、病院に隣接する保健センター長を務めた後、99年頃から、現在の病院に勤めるようになった。追われるように町を離れたことについて「それは寂しかったです。慕ってくれる人がたくさんいたのでね」と遠くを見つめた。

「死の現場で、ベテラン医師が絶えず冷静さを保てるかというと、そうじゃないんです。あなたが(海外で)見てこられた人々は、極めて冷静。それは法律が確立しているからできることなんでしょうけどね」

山中の発言に生じる「不整合」

山中は、突然、安楽死容認国の制度を羨むようなことを口にした。しかしながら、スイスやオランダでも、本人の意思なしで死が遂げられることはあり得ない。

患者さんが意思表示できない時は、どんな解決策があるのでしょうか?

私が、彼にさりげなく訊くと、答えはこうだった。

「家族との相談がまず大事になってきます。それは、患者さん本人にとって一番大事な分身といいますかね。血縁のない妻であっても分身だと思うし、子供たちはまさに分身です」

多田の妻や娘たちの了解があれば、安楽死があっても良いという意味合いになるが、そもそも患者の多田本人に癌の告知さえなされていなかった。生前、多田が家族と死について、話し合っているはずはない。その意味からも、山中の発言には、不整合が生じてしまう。

その一方で、私個人としては、この血縁的な考えに必ずしも反対はしない。「個人の死」を時には尊重することもある私だが、彼の言う「分身」という考え方にも共感できる。

「私は、亡くなっていく人たちに、『あなたはちょっと早く旅立つけど、我々もやがて旅立つ存在なんだ』と言うのです。その苦しむ姿を見たり、家族に見せたりするのは、ヒューマニスティックではないと思いますね」

この考え方は、スイスやオランダのようである。残される家族に苦しむ姿を見せないためにも、安楽死を認めることが望ましいという論理だ。私は、こうした考え方を、諸外国で学んできたが、山中は、どこでこうした思考に辿り着いたのか。単純に感情論で話しているのではなさそうだった。

原爆で親類を亡くした

実は、広島県庄原市出身の山中は、二人の兄を病気で失っていた。

「1番目の兄貴は戦後、食料事情の悪い東京で、医大に通っていましたが、そこで病気で亡くなりました。2番目の兄貴は、明治大学へ行っていまして、やがて病気で亡くなりました。親父のすぐ上の姉が原爆で亡くなったこともよく覚えています」

若い頃、彼らが長く苦しむ姿を目の当たりにしてきた。だからこそ、彼は、人間の生死に対し、思いが強いのかもしれない。また、彼には髄膜炎の後遺症で障害を抱える次男がいる。こうした存在も医師としての人生を歩む上でなにがしかの影響を与えたのだろう。

山中の価値観に納得させられる部分があったことは確かだ。地域医療を一手に担った「教祖様」が、この町の住民から慕われるのも理解できる気がした。彼の辞任後、地元住民以外にも、日本全国や海外からの支援者ら約10万人が、院長復帰を求める活動に署名した。

先生はなぜ、今になって、私の取材を承諾されたのですか?

私が、そう最後の質問をしたのは、事件以降、「マスコミの怖さを知っていますから、誰にも話していません」と口にしていたからだ。

すると、「実はねぇ」と呟き、こう語った。

「今日、私が宮下さんに会おうと思ったのは、ちょうど私の親父が死んだ年齢だったからなんです。いつ死ぬかも分からない。以前のマスコミとは違う人であれば、話をしておきたいと思ったんです」