※本稿は、宮下洋一『安楽死を遂げるまで』(小学館)の第6章「殺人医師と呼ばれた者たち」を再編集したものです。
週刊誌は「殺人医師」と書き立てた
組織力に定評があるはずの日本では、漏洩や内部告発が多発する。欧米では、意外と少ない。そこには、職場で積極的な発言をしづらい、日本特有の国民性が関係していることもあろう。溜まった鬱憤が、何らかの拍子で外部に放出されてしまう。これも集団の特性なのか。
リーク情報を受け、朝日、産経、日経の三紙は、「安楽死事件」と名付け、毎日と東京の二紙は「筋弛緩剤投与事件」に留めた。読売は、前者から後者へと定義付けを変更した。週刊誌も「殺人医師」と書き立てた。こうした報道も、国民に誤解を与えたことだろう。
2002年12月26日、横浜地検は殺人罪で起訴した。翌03年の3月27日から、横浜地裁で公判が始まった。最終的に「呼吸筋弛緩に基づく窒息により死亡させて殺害した」として、須田に懲役3年執行猶予5年の有罪判決を言い渡した。
第一審では、須田が臨死期の土井の気管内チューブを外し、想定外の反応を見せたため鎮静剤を打ち、最後に彼女自身が筋弛緩剤を点滴から投与したという事実経過が重要視されなかった。いや、須田も自ら主張しなかった。
当時の弁護士が、須田に口を酸っぱくして言ったからだ。
「被告人なのだから神妙にしていてください。公の前で笑顔を見せたりしないように」
須田医師が患者の妻と交わした会話
須田は、患者遺族の証言にも矛盾があったと指摘する。
彼女によれば、土井を安らかに眠らせるため、家族とは事前に相談済みだったという。それは、気管内チューブ抜管の承諾だった。だが、裁判官は、当時、須田が家族に「九分九厘、植物状態」と伝えたことに対し、「衝撃的で不正確な説明」「配慮に欠ける対応をして家族らとの意思疎通を欠いた」と押し切った。
実際はどうだったのか。患者が息を引き取る前の午後、須田が土井の妻と交わした会話を、著書をもとに再現しよう。
「この管を外してほしいんです」
「えっ? これを抜いたら呼吸できなくて生きていけませんよ」
「わかっています」
「早ければ数分で最後になることもあるんです。奥様一人で決められることではないんですよ。みなさん了解してらっしゃるんですか?」
「みんなで考えたことです」
これらを録音していたわけではないため、証拠にはなり得ない。だが、裁判で土井の妻は、この時間帯に病院には行っていないと言い張った。そして抜管は、医師の独断によるものだったという判断が下された。