※本稿は、宮下洋一『安楽死を遂げるまで』(小学館)の第6章「殺人医師と呼ばれた者たち」を再編集したものです。
「私がしたことは殺人ですか」
「安楽死とか何とか言われても、私はそういう認識ではないので。ご家族の判断だったり、本人がその日に言った言葉だったり、いろいろ違う。だから、あんまり杓子定規にここから安楽死、ここから尊厳死というわけにはいかない。線で切れるようなことではないんです」
横浜市にある大倉山診療所の院長を務める須田セツ子(62)は、「安楽死」という言葉に、まるでアレルギー反応を示すかのように、やるせない表情を浮かべた。この問題を日本人医師にふると、多くは曖昧な表現で言葉を濁す。だが、彼女はそうではない。私は、物事を率直に言う日本人が意外と好きだ。もはや恐れるものなど彼女にはない、とでもいうべきか。
日本の医療界において、安楽死の殺人罪で起訴され、唯一、最高裁まで闘った医師は、彼女一人だった。ヨーロッパから帰国中のある夜、私は、須田の著書を一気に読んだ。読む時は、欧米との体験比較になる。タイトルはこうだ。『私がしたことは殺人ですか?』(2010年、青志社)。調査を重ね、その質問の最終的な答えを、私なりに見つけたいと思った。
安楽死容認国で、この手の医療措置は、事件に発展することがまずない。オランダで取材した「死ぬ権利協会世界連合」のロブ・ヨンキエールが「私は安楽死をさせても報告してこなかったが、検察はそのことを知っていた」と、話していたのを思い出す。
日本では、患者本人の意思の有無にかかわらず、終末期の患者を積極的に死に導いた場合、民事訴訟だけでなく、刑事訴訟に発展し、医業停止命令を受ける可能性がある。
「植物状態」の患者に筋弛緩剤を投与
なぜこの国では、こんな事態に発展するのか。その背景には、日本独特の慣習や法律が根差している。当時、呼吸器内科部長を務めていた須田セツ子本人の口から、それらが実際の医療現場の常識と、どう乖離しているのかを探りたかった。
1998年11月16日、事件は、神奈川県川崎市にある川崎協同病院の南病棟228号室で起きた。気管支ぜんそくに罹患していた当時58歳の男性患者、土井孝雄(仮名)が、鎮静剤の後、筋弛緩剤「ミオブロック」を投与され、息を引き取った。その時、主治医だった呼吸器内科のベテラン部長の須田が、「4年後」の2002年12月、殺人罪で起訴された。
工務店を営んでいた型枠大工の土井は、1984年から川崎公害病患者に認定されていた。京浜工業地帯の中心を担う同市では、多くの健康被害が認められている。その4年前から同病院に勤めていた須田は、外来主治医として、この患者をよく知っていた。普段は無口だった彼が、須田に会うと、時々、言う口癖があった。
「自分はこの仕事をずっとやってきた。この仕事が大事なんです」
空気の澄んだ他の地域で生活するという選択もあったはずだが、彼はこの地に留まった。14年間、通院を続けた土井は、何よりも仕事を優先した。体を休める週末になると病状が悪化する患者が多いといわれるが、彼もその一人で、ある日曜日に体調が優れなかった。