※本稿は、宮下洋一『安楽死を遂げるまで』(小学館)の第6章「殺人医師と呼ばれた者たち」を再編集したものです。
「冷静だったらやっていない」
(前編から続く)ただ、一つ気になることがあった。彼の話を遮り、質問した。
先生は、「動揺」という言葉を繰り返していますが、冷静な判断だったら、あのような形の死にはなっていなかったと?
ベテラン医師は、その時、おそらく言うべきではない、いや、私としては言ってほしくない言葉をさらりと言った。
「うん、だから冷静だったらね、逆に何もしないかもしれない。何もしないのが一番良かったなと、今、思っています」
医師も人間だ。他人に同情したり、憤慨したりすることがあるだろう。しかし、後悔の念を抱くくらいなら、他人を安楽の世界に導かないほうがいい。私は、そう考えている。
そしてもう一つ、山中の言い分に解せない部分があった。欧米で行われている安楽死の条件の中には、必ず「本人の明確な意思」が、医師側に表示されていなくてはならない。そこでようやく「個人の死」が成立し、家族も納得するのである。
それなくして、医師が患者家族という二人称の世界に土足で侵入し、死を手助けすることがあってはならないと、私は思う。多田は、癌告知されていなかった。このことも、大きな欠陥だったのではないか。
山中は、癌告知について、「今でも、僕は(告知を)100%すればいいとは思っていません。すべき人にはする、すべきでない人にはしない」という哲学を持っている。もし彼がそう考えるのであれば、なおさら安楽死に繋がる行為をすべきでなかったと感じてしまう。
怒り肩の医師は、私の横に設置されていたホワイトボードの前に立ち、マジックペンを手に取った。彼は、ボードに一本の長い横線を書き、「これはつまり、限りなく安楽死に近い病死」と言って、「点」か「線」かの解説を具体的な図で説明し始めた。
「時間帯なんですよ。筋弛緩剤を点滴で入れたのは、亡くなる瞬間なんですよ。12時間以上、臨終の時間帯がずっと続いていましたから。痙攣が起こる前から、無呼吸が始まっていた。呼名反応なしで、脳幹反射といわれる捷毛反応がない。もう脳幹が完全に死んでいるわけですね。それが事故だと一過性で、また元に戻る場合だってあり得る。だけど、癌末期の人はね、まったく無理でリターンはないんです」
死のラインを跨いでいた
臨終間近の多田は死んでいたも同然で、いずれ死ぬのであれば、苦しむ姿を家族に見てほしくない。ならば、筋弛緩剤を使って、早く楽にしてあげるべきだ、ということだろう。
右端の「生」から左端の「死」までを表す横線の間に「ミドルワールド」という縦線を引き、これは「臨死状態」を意味するとして、医師は説明を続けた。
「私が赴任した昭和43年(1968年)頃は、京北は僻地で、山林事故が相次ぎました。意識障害に陥り、これはもう危ないという患者を何度も手術した。さあ、どっちに行くかという時に、こちら(右)に戻る人も結構いるんです。だけど、癌末期の人は絶対こっち(左)しかないんです。マスコミの皆さんの一番の欠落部分は、どんな時間帯だったかなんです。(多田の場合は)死のラインを半分またいだ状態でした」
余命については、多くの専門家が言うように、医学的根拠がない。この臨死状態の「ミドルワールド」の中の判断は、山中の経験上の「勘」であるとしか言いようがない。
レラキシン投与が、多田の妻にとって、安楽死に繋がる行為との認識があったのかについては定かではない。人口7400の小さな町で、しかも90年代の日本で、安楽死とはいかなる行為であるのかを理解している人も少なかったはずだ。