出されたお茶を飲み干さなければならない理由

▼ピッタリの時刻に相手を呼び出す

アポイントメントが15時の場合、大抵14時53分あたりには受付に着いているものだ。そこで私は何気なく「それじゃあ、○○さんを呼び出しますね」と内線電話をかけようとした。ところが先輩は「いや、15時ピッタリまで待って」とストップをかけた。いわく「向こうはあくまでも15時からオレらとの時間をつくっているんだよ。『あと7分もあるのになんだよ……』と思うかもしれない。早く訪ねてくる分にはいいだろう、というのはこちらの勝手な都合だ。あちらさんはこの7分で最後の準備をしているかもしれないし、別の大事な仕事をしているかもしれない。15時と言ったら15時なんだ。『遅いのはダメだけど早いのはいい』ということではない」とのこと。

▼出されたお茶は飲み干す

就職活動の際、OB訪問の作法として「先輩の話に聞き入っているという熱心さを見せるため、出された飲み物には手をつけるな」という謎のルールがあった。あるいは「飲んでいい」と先輩からは言われるまで飲んではいけない、というものもあった。それらは真偽不明のライフハックとして学生の間で語り継がれているようなものだったが、私は社会人になった当初も、出先の打ち合わせで供されたお茶やコーヒーを前に、同じ対応を取っていた。

なにせ入社1年目、2年目のペーペーだ。そんな若輩者が、お客さまを前にして飲み物なんて飲んでいいのだろうか? と思ったのだ。だが、先輩は「ちゃんと飲め」と言う。理由は単純で「お茶が残っていたら、下げるときに大変」だから。先輩はこう続けた。「お茶を淹れてくれた人はきっとバイトとか契約社員だろう。その人はわれわれの打ち合わせが終わった後、ひっそりと湯呑みを回収しに来て、その湯呑みを洗うことになる。紙コップの場合は洗わずに済むけど、液体が残っていたら流しに捨てに行く手間が増えて面倒だ。あと、飲み物が残っていたら運びづらいだろ? 自分が淹れたお茶を流しに捨てるのも、いい気分はしないだろ?」

先輩の助言は「せっかく出していただいたのだから、ありがたく頂戴しなさい」ということに加えて、「自分が直接的に関わる担当者だけでなく、裏方のスタッフにも、ちゃんと気を配れるようになれ」という意図も含んでいたように思う。

先輩に指摘されてから、出されたものは全部飲み干すようになった。氷が入っていたら、それも全部食べてしまっていたのだが、これはさすがに「中川さんが氷をポリポリかじる音が気になった(笑)」などと相手に言われてしまったので、控えるようになった。

ここまで述べてきた作法を教えてくれた先輩はさらに、池波正太郎の『男の作法』を読むよう、私にすすめてくれた。

「お前、この本を読んでおけば、ある程度『粋』な感じは出せるようになるぞ」。そう言って、本に書かれた天ぷら屋の一節を読み上げてくれた。

“てんぷら屋に行くときは腹をすかして行って、親の敵にでも会ったように揚げるそばからかぶりつくようにして食べていかなきゃ、てんぷら屋のおやじは喜ばないんだよ。よく、てんぷらの揚がっているのを前に置いて、しゃべってるのがいるじゃないの。そういうのはもう、一所懸命、自分が揚げているのに何だというので、がっかりするんですよ”

プレゼン、会食、出張など、ありとあらゆる場面で先輩から作法を教えてもらったわけだが、それらは確実に、いまの私の糧になっている。