松園はスワローズ入りの話を一切しなかった。12歳で父親を亡くし、母親を助けながら育ってきたという自分の生い立ちを語ったという。
「無理にヤクルトに入れという話は一切なかった。ただ、野球が駄目になっても社会に出られるようにちゃんと教育するというような話をしてくださった。ぼくももともと野球は大好き。話を聞いているうちに、プロでやってみてもいいのかなと思い始めた。そして自分は行くものだという気になってきた」
入ってみると、やはり才能の差を感じたという。
スワローズでの最初のキャンプで、荒木はプロ野球選手の投球に圧倒された。
「杉浦(亨)さんとか大杉(勝男)さんの打球を見たら、これはもう大変なところに来たって思ってました。それでブルペンに入ったら、みんなビュンビュン投げている。コントールもすごくいい。ぼくはコントールには自信あったんですが、中に入ったら並」
荒木が目標としたのは3年で1軍のマウンドに上がるということだった。先輩投手たちのトレーニング法、投球を研究し、野球というものを考え抜いた。それが才能で劣る荒木の生き残りの策だった。
1年目の83年シーズンは15試合に登板し1勝0敗。2年目は22試合登板で0勝5敗。そして3年目の85年シーズン後半から先発ローテーションに入るようになった。翌86年、87年は開幕投手も任された。
しかし――。
88年5月、肘の腱が切れていたことが判明。アメリカで側副靱帯再建手術を受けている。手術は成功したが、復帰を急いだため症状が再発、2度目の手術を受けることになった。さらに椎間板ヘルニアの治療も重なり、復帰したのは約4年後の1992年9月だった。
このシーズンの終盤に2勝を上げた荒木は、チームを後押しする形となり、スワローズは14年ぶりのリーグ優勝を飾った。翌年はリーグ連覇、そして日本シリーズ初戦で先発勝利を挙げ、スワローズの日本一に貢献した。
これが彼の最後の輝きだった。
「ドラフトは入り口に過ぎない」
95年シーズン終了後、横浜ベイスターズへ移籍。しかし5試合の登板に留まり、現役引退した。通算10年で39勝49敗2セーブという成績だった。
引退後、彼はアメリカに渡りクリーブランド・インディアンズ傘下、2Aのアクロン・エアロズにコーチ留学。その後、2004年に西武ライオンズ、2007年にスワローズのコーチに就任した。現在は現場からは離れて野球評論家として活動している。
指導者としての経験を踏まえた上で荒木は、プロでやっていける選手とそうでない選手の差をこう表現する。
「プロに入ってくる選手はみんな、ある程度の力を持っている。150キロ投げようが、言われたままやっている選手は駄目。残っているのは自分で工夫する選手なんです」
実戦を積み重ねて、自己を磨くことのできる選手のみが残る。ドラフトはその入り口に過ぎないと、元ドライチの荒木は言うのだ。
1968年3月13日、京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。スポーツを中心に人物ノンフィクションを手掛け、各メディアで幅広く活躍する。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)など。