※以下は田崎健太『ドライチ ドラフト1位の肖像』(カンゼン刊)から抜粋し、再構成したものです。
伊良部秀輝と同じ尼崎出身
ドラフト1位――ドライチの光と影を描きたいと思ったのは、2013年6月に的場寛一と会ったときだった。
的場は1999年にドラフト1位で阪神タイガースに入団した内野手だった。
この頃、ぼくは故・伊良部秀輝の評伝のため、彼を知る人間を取材して回っていた。
1969年生まれの伊良部も87年のドラフト会議で1位指名され、香川県の尽誠学園からロッテオリオンズに入っている。彼は、いわゆるドライチらしい男だったといえる。子どもの頃から体格に恵まれており、並外れた速球はもちろんだが、打者としても周囲が目を見張る打球を飛ばした。伊良部を昔から知る人間はみな、いずれプロ野球選手になるだろうと予想していた。そういう期待を持たせる、規格外の存在だった。
的場の父親、康司は伊良部が所属していた兵庫尼崎ボーイズのコーチだった。的場も子どもの頃から伊良部を知っており、阪神タイガース時代には同僚にもなっている。年の差8歳のドライチが尼崎という街で交差していたことが興味深かった。
このとき、的場はタイガースを退団、トヨタ自動車に勤務していた。名鉄の豊田市駅の改札で待ち合わせて話を聞くことになった。
「口に合うかどうかわかりませんけど、駅前の居酒屋を予約してあります」
的場は優しい笑顔を見せた。端正な顔つき、半袖のシャツにスラックスという姿は、勤務終わりの会社員そのもので駅の中にすっかり溶け込んでた。的場が押さえてくれていたのは、落ち着いた雰囲気の居酒屋の個室だった。話を聞きやすいように気を遣ってくれたことがわかった。
録音させてもらいますね、とぼくがテーブルの上にオリンパスのICレコーダーを置くと、的場は「ぼくも会社員生活をするようになってマイボイスレコーダーを買ったんですよ」と微笑んだ。
「伊良部さんは地元尼崎の誇りです」
「伊良部さんがロッテに入ったとき、兵尼(兵庫尼崎ボーイズ)にバッティングマシンを送ったんです。マシンに『ロッテオリオンズ伊良部寄贈』と書かれていて、それで練習してました。最速158キロとか出して、ぼくらにとっては神様みたいな人でした。メジャーに行ってヤンキースの(スタインブレーナー)オーナーからヒキガエルとか言われても、全然恥と思わなかった。(漫才コンビの)ダウンタウンと匹敵する尼崎の誇りですよね」